教育寄りの観点から

 増田の「障害者といえば、私の個人的な経験なんだけど、...」について。
 私自身は、高所得でも育ちがよくもなく、双方ともそれなりにマイナス側に振れているはず(まぁ、これも統計を取ったわけではないので確証はない。)だが、『接し方が普通なこと』というのは理解できているつもりではいる。
 とはいえ、こういう領域の感覚は肯定、否定があっても不思議ではないし、また、肯定であってもその感覚自体が一致しているわけでもないだろうと思われる。
 そういう意味で、『家庭での教育の差なのかとか皆大人になったんだとか最初思ったんだけど、それ以上に人の本質を見れる人が多いのだとなんとなく気づいた。/育ちの差ってそういう所に現れるんじゃないかなぁって。』という部分に対して、私自身の感覚は似て非なるもの、と表現した方がいいかもしれない。

 まず、自分がたりを始める前に前提の話を。
 『教育の差(家庭かどうかに限らず)』と『育ちの差』という定義が曖昧ではあるものの、網羅的にその差の因子の一部を列記した時点でそれぞれの集合は互いに素である(わっかが交差しているアレ)と推定してよいものであろうと私は考えている。
 ただし、『接し方が普通なこと』を規定し『教育の差(家庭かどうかに限らず)』となって現れる因子群と同じく『育ちの差』になって現れる因子群が排反関係にあるのか、一方の因子群がはなから存在し得ないのかは私には分からないので、厳密に考えれば、肯定も否定もできないという立場にあるが、個人的な感覚の上では、積集合が大きめではあるが一致はしていないようなイメージである。
 また、こういった話は範囲が大きすぎて網羅的であることは非常に困難出るため、とある一部のさらに個人的な話であり、別の考え方や観点や条件などがあって、結論が異なるのは当然ながらあると考える。
 あと、法的に定義された区分に従う「障害者」と「そうでない者」が共生することを目的としているため、「障害者」は「障害者」たらねばならない、「障害者」は「障害者」であるがゆえの自然権が存在し、一方には当然ないという考えに基づく者には適用は不可能かと思われる。

 で、個人的なところでいうと、最終的には『教育の差(家庭かどうかに限らず)』とか『育ちの差』に現れる可能性もあるにはあるが、その前駆段階の条件として、「適切な経験」と「自律的な受容」が関係しているように思っている。
 ただし、「適切な経験」と「自立的な受容」は双方が独立して機能するわけではなく、お互いに関連し合い、さらにその関連性も入力される事象と受け取る側の個人とその双方が置かれている諸条件によって変わるものであると思われる。

 私自身は、先述のとおり育ちもよくなく、親自身も人権意識などに明るくない方(というか、むしろ否定的な方)であった。
 幼少のころは、くそ田舎であるがゆえに一部に見られる障害者への偏見がさも当然のごとく存在し、若者が農作業中に怪我をして車椅子生活を余儀なくされれば、体面が悪いといって家から出させて街に住まわせるなどというようなことが平然と行われていたような環境ではあった。
 そんななかで、そういった関連の自らの行動規約を形作った(今となってははっきり認識できないが、書き換えた、かもしれない。)のは、高校時代の考え方へのアプローチと経験であると思う。
 うちの高校は、養護学校(今の特別支援学校)と提携(多分だが、文部科学省が規定する「交流」や「共同学習」よりかはかなり踏み込んでいると思われる)していたため、そばにいることに不自然さ(増田の言うような悪い表現をすると腫れ物にさわるような扱いだとか、逆に差別的感情を呈するとか)を感じず、そもそも「健常者」と「障害者」のような区分けをして何かを考えなければならないという行為そのものがあまり意味を持たない、という環境であったことが1つ挙げられるだろう。
 あと、入学以降にその提携の件に関する話があったりするわけだが、よくある障害者理解の教育で行われる、差別はダメです、権利があります、親切にしましょう、配慮しましょう的な話はほとんどなく、どちらかといえば、それは国民としての前提条件であるとして、人として自己をいかに確立することでそれを満たすかということを自ら導かせようとする、ある意味精神論に近い話で面食らったように思う。
 また、クラスによって違っていたらしいのだが、例えば増田のいう『目に見える身体障害』を感覚的に捉えるのではなく、病理学的に捉えることで共生を考えるようなこともやっていたようだ。
 ただし、このような提携を結ぶ際の管理者である大人の理論から考えれば、リスクヘッジの考え方から、学歴などといった教育の事項につながる要因で提携先を選ぶ可能性も高くはある。
 うちの学校は県内一の進学校であった(余談だが私の成績は下から一桁とかざらだったが)のだが、なにぶん校舎が古いため、エレベータが設置されていないという配慮のかけらもないインフラであり、増改築を何度か行ったためにかなり大きい段差も多かった。
 それゆえ、車椅子の人が立ち止まっていたら周囲の生徒が担いで昇り降りするのが当然であって、多分、疑問に感じる者もいなかったのではと思う。
 しかしながら、はっちゃけてる子が多い(適切な表現が見つからないが)学校であれば、そこの生徒はバカにされたと思うかも知れないが、生徒の安全面から考えればリスクヘッジとしてその学校を選択肢から外すと思われる。
 また、脊髄反射的に好き嫌いを呈する者や論理的思考に疎い者が多く在籍するとその大人が仮にも想定すれば、同様に選択肢から外されるだろう。
 と、結果的に、学歴が高いことであったり、学歴が高い理由として潤沢にカネがつぎ込まれた結果だとすれば、高収入であるという遡り方もできなくはない。
 そういう意味では、あらかじめ準備された適切な環境で経験する機会が『教育の差(家庭かどうかに限らず)』や『育ちの差』で均等でない可能性も高いと考えられなくもない。
 ただ、いずれにせよ、「経験」の前に適切な知識と認識するシステムがあることで、「適切な経験」となりうると思われる。
 先述のとおり、現在では文部科学省が規定する「交流」や「共同学習」がほとんどの学校で行われているようだが、均質的教育を基本とする教育システムであるがゆえに、比較的現場の教員が対応しやすい増田のいう『教師から周りから親切な言葉をかけてもらい続けてきた。』といった状態が最終的な着地点であるとする傾向であるように感じる。
 当然、苛烈な物理的、精神的差別にさらされる状況よりははるかにいいわけで、すこしずつ底上げしていきましょうというのも政策的にありだとは思う。
 ただ、それでもうおしまいなわけではないことも認識すべきところではあろうかと思う。

 「自律的な受容」という造語がはたして一般的かどうか分からないが、相手から「○○は△△ですよ」というところから、自らの受け止め方が「○○は他人からそういわれたから△△だ」というものではなく、自らの思考プロセスの一つとしてシステムに統合されていて、自らそのシステムを用いて結論を導くことができることを「自律」とし、そのシステムでもって受容することを指す。
 受容は、「ありのままを受け入れる」などと表現されることが多いが、とりあえず、それはそれでよいとして、ここでの扱いは、ありのままを受け入れた状態になることおよびありのままを受け入れた内容を蓄積し、思考プロセスにフィードバックすることも含むものとする。
 ただし、内容の蓄積と思考プロセスへのフィードバックは、自律的か無意識かどうかの別は問わない。
 あと、共感とどう違うのかは面倒なので置いておく。
 「ありのまま」をどう捉えるかにもよるが、突き詰めると対象の認識論とか存在論などの哲学の世界に入りかねない。
 ただ、少なくとも「相手のありのまま」は「自身が感じる相手のありのまま」とは何らかの差異が存在していると考えてよいかと思う。
 「相手のありのまま」と「自身が感じる相手のありのまま」とを近づけるためには、知識や教養であったり、論理的思考能力であったりするのだろうが、意識的に体験することにより成果が得られることもある。
 個人的な経験からいうと、バスケットボール用の車いすに乗ったことがあるのだが、コートの端から端まで行くだけで「もう、やめていいかな?」というぐらい大変だったことを思い出す。
 コツとかがあるのだろうし、私自身が運動音痴であることもあるだろうが、ただの移動だけでなく自由な方向にコートを駆け回ってストップアンドゴーを繰り返し、ドリブルとかまでやるとか心底すごい、かっこいい、と思ったものである。
 これを共感と捉えるか受容の1つのサブプロセスにおける中間生成物と捉えるかは様々であろうが、個人的には受容の精度を高めるために用いたというだけの話である。
 直感的に伝えるためのうまい表現方法が思いつかないのだが、共感(というか、多分一方的な感動かもしれない)から自らと区別して『自分より辛い人もいる』としていく思考プロセス(感情を解釈するような領域のプロセス)の働きが強いのか、それとも先述のような思考プロセスに入力される情報として捉えて処理されるかどうかの違いから考えると、『生活に余裕がある人』であることと直接的な関連性を導き出すことは難しいだろう。
 統計的に有意かどうかは調査しないことには分からないとは思うが、もし仮に増田のいうような有意な差が存在する場合、個人的には、「適切な経験」側でも述べたようにその機会損失の差ではないかと考えている。
 当然、私程度が思いつくだけに同様な考え方として、均質的に文部科学省が規定する「交流」や「共同学習」が行われるようになった。
 こういった手法は、全体的な底上げや問題意識の醸成などの啓蒙に重要な役割を果たしていると思う。
 が、先述のとおり、それだけで「共生社会を実現する」といったような状況を生み出すことはかなり難しく、個人的には、次の段階に移行する時期にきている(感覚的にはかなり前からだが)と感じる。



 と、書いてみて、教育的観点と言いつつ教育のごく一部での観点でしかないなぁ、などと思ったりして、大きく出て失敗したなどと思ってはいるが、そのままにしてみる。
 コメに『ABテスト』と述べている者がいるが、皮肉ではなく、実際様々な観点からABテストのようなこと(仮定に仮定を重ねる関係上精度的には何ともいえないものになりはするが)を行うことは、利する点もないわけではないかと思う。
 例えば、制度的、政策的な観点から検討するとき、それなりのボリュームの対象者の感覚(いわゆる世論のようなもの)が実際の統計データと乖離しているからといってその感覚を一笑にふして切り捨ててよいかというとそうでもない。
 その感覚を適切な方向に向かわせなければ、たとえ理不尽なものであるとしても不満や怒りとなって表層化し、制度や政策を脅かす可能性もある。(こういうプロセスを悪用する者も結構多いが、あまり触れないことにする。)
 また、マーケティングの領域で「ABテスト」を行った際、どちらが効率的か低コストかという論理で止まってしまうことが多い(場合によっては、効果的ですらなかったりすることもある。大手とか業界トップとかだと違うのかなぁ)ように思うが、「ABテスト」から「ABテスト」が解決しようとしている課題とは別のニーズのようなものが見えることもある。
 これとは少し毛色が違うかも知れないが、ことの数値的正誤云々ではなく、増田の認識とコメを残した者たちの考え方や捉え方の差異(コンフリクト)をいかに統合的に調整していき、そのために何が必要なのかを導き出すこと(いわゆるコンフリクトマネジメントの一領域)が可能なのではないかと思う。
 まぁ、私もコメにあるとおり所得と生活と賢いかバカかのくだりは少しことを性急に運ぼうとしすぎたのではと感じざるを得ないが、多分、増田が主題とし、受け取る側として最も有益な情報はそこではないと思うので。