上か下

 増田ネタ。
 今回は、「国語科教育論」を読んで昔話をメモしておきたくなったので書いてみる。

 まず、『現代文(特に評論)の読解には、大きく分けて2つの読み方がある/1つは、トップダウン式の読み方で、全体をざっと理解してから細部に及ぶという、いわば演繹的な読み方である/もう1つは、ボトムアップ式の読み方で、細部を精読してそれを有機的に繋ぎ合わせるという、いわば帰納的な読み方である』。
 私自身、教育関係者ではないが、えらいざっくりいったなぁ、という気がしてひやひやしてしまった。
 とはいえ、ちゃんと説明していたら鈍器レベルの書籍ができてしまうはずなのである意味しかたがないとは思う。
 例えば、組織論でいうところのトップダウンボトムアップなどは当たり前として、はてな民に多いと思われるIT関連を生業とする者からすれば、トップダウンボトムアップの設計手法をイメージすると符合しない部分も多いとは思うし、かといって読解よりもさらにミクロな言語認知の世界からすれば、その積層構造から、コメにあるような『ボトムアップトップダウンを併用している』のかどうかを深掘りしなければならなくなるなど、結構面倒くさい。
 結果的に『いわば』で逃げざるを得ない(というか条件下でのもっとも効果的な手筋)のだが、さらに「読解」単体においても立場と目的によって話は変わってくる、ということになるのではないかと思う。
 演繹的か帰納的かという考え方からすれば、文章群をどういった構造で組み立てるのか、組み立てられているのか(フレームワークに近い、のかなぁ)を考える側面からいかなるアプローチを取るのかということになるのではないかと考える。
 ただし、受験などのテクニカルな話になってくれば別で、トップダウンの演繹的推論を逆にたどるような手法(先に設問を読み、本文全体、細部と進むことで適切な解答を導く方法)というのもあってしかるべきではないかと思われる。
 一方、増田も『トップダウン式の読み方というのは、まともに書かれた文章をまともに読もうとするとき、まともに使うことは稀であるように思う/それこそ、難関国立大の2次試験程度だ』と指摘するように、一般社会でトップダウンのみで読解してしまうことは扱う文書が玉石混淆であるがゆえに危険な手法ではある。
 ただ、何のことはない、私は公立小学校の先生からペーパーテストは時間が足りなくなるからトップダウンで解け、それ以外の時は論理構造が存在するものはトップダウンとかボトムアップとか関係なく好きなように読め、理解できなかったら別の方法を試せ、味付けされていないもの(いわゆる素のデータ群)はどちらも使うな、色眼鏡で見るなと言われて(トップダウンボトムアップという表現ではないが)、まぁ、そういうもんかと思っていたわけだが、高校レベルになっても「一方だけ」という考え方があるのか、というのが素直な驚きといえば驚きである。
 昨今の中学受験の試験問題において良問だと言われるもののなかには、トップダウンを用いなければ時間配分の関係上解答しきれない問題とトップダウンを用いると明らかに間違えた解答にたどりつくような巧妙なトラップ(各種バイアスなど)を仕掛け、ボトムアップだとすんなり解けるような問題を絶妙に配分していたりしていて、私からすると作問した人はどんな頭の構想をしてるんだろうと感心することもしばしばである。
 また、ビジネス文書を解読する場合などは、『まともに書かれた文章』も当然多いはずなのだが、実際のところ、文章群が壊滅的に腐っていれば、トップダウンだろうとボトムアップだろうと解答が導けなかったり、正しくない解答しか導けないことも当然存在する。
 コメにビジネス文書の読解に必要な枠組みはトップダウンではないかと指摘されていたが、『まともに書かれた文章』であることが前提になるであろうし、それが前提であるのはアカデミックな領域か高レベルな企業に限られてしまうように思われる。
 さらにその文章群が「真面目に書かれた文章」であっても、ラヴクラフトじゃないが、人に物の関連性に思いあたる能力がない以上、執筆者以上の能力を用いて正しくすべての関連性を網羅して記述されているわけではなく、それゆえ、いななる読解のツールも万能ではなくかつ適用限界が存在するのではなかろうかと思う。

 『トップダウン式の読み方というのは、何より、それを履き違えた形で身に付いてしまうと、/「自分の都合のいい/自分が読める箇所だけを繋ぎ合わせて何となく理解した気になって、こんなもんだろう、と都合のいい物語を勝手に作り上げてしまう」/危険性が、ボトムアップ式の読み方より強い』。
 教育者の経験から導いた真理であろうと思うし、私もそう感じるが、それとは別に2点注意しなければならない箇所があると思う。
 1点目は、教育者として容認できない考え方だとは分かった上でのことだが、『履き違えた形で身に付く』ことに起因する状況、言動などが、社会人としてあるべき姿ではなかったとしても結果的に基準を満たしてしまうことが多い社会システムで運営されているために思った以上に支障がないと考えられなくもないところだろうか。
 そんな人間ばかりじゃない、という向きもあろうかとは思うが、そんな人間ばかりじゃない以外の人間もそれなりの数存在し、だからといって社会性が損なわれることなく生活しているものだ。
 ぶっちゃけてしまうと、不得意なボトムアップを中途半端に身につけて時間はかかるわ、解答は間違っているわ、進歩的な箇所を見つけてほめようにも見当たらないわと、昨今の「真面目系クズ」に近しい状況を想定するよりも直感的、直情的に生きた方が人生は充実すると考えても不思議ではない。(この論法自体に論理性を感じられないが当事者がそう発言していたのでそのまま書いてみた。)
 また、こういった考え方がトップダウンの優位性(歪められた考え方ではあるが)と呼応しているのではないのかとさえ邪推してしまいかねなくはある。
 2点目は、先述と被るが、その危険性からボトムアップのみに頼ることがすべてのパーソナリティ、すべての立場(子育てをする親、教育者、教育を施される者、職種、役職など)で適用可能でかつ最適解であるとは私自身は言い切ることができない。(コメにもそういった考え方が散見できる。)
 ただ、学校教育者という限られた期間、限られた時間、限られたリソースで同時に多人数に授けることのできることが非常に限られていることを考えれば、中途半端になるよりも1つに集中し、それを確実にするというのもありかとは思う。
 あまり詳しくは書かないが、中には「トップダウンは社会に出たら嫌というほど叩き込まれるんだからボトムアップだけやっとりゃええんじゃ」と放言する教職者もいたが、そういう考えであれば、できれば改めてもらいたくはある。
 苦しむのは子供たちだけであり、さらには社会に送り出しされた者の中に教育関係者への不信感を持つ者を増やす結果を招くだけであると思うからだ。(当人は逆恨みだと喝破していたが。)

 『ボトムアップの読み方すらできない人は、トップダウンの読み方なんて絶対無理』。
 これは、人によっていろいろな考えがあっていいと思うところではある。
 ただ、私自身は、簡単ではないが無理ではないと考えている。
 まず、詰め込み教育時代に対してボトムアップを忌避する者は、「そんな考え方では創造性が育まれない。日本の国際競争力の低下云々」などと言われてきたことを考えれば、増田のいう『古い!ナンセンスだ!そんな読み方は活動的じゃない!』という言質の者のように、多分その根拠を語れない可能性が高くあまり有効な意見ではない(迎合だとすればその震源のみ分析すればよいので)事例は除外するとしても、まゆつばとして捨て置く話でもないように思う。(今から思えば、ということで結果論ではあるが)
 個人的な経験からいえば、ボトムアップの読解に比重を置いてしまうと、読解力と文章構成力を明確に分離して教化されなければ、大抵の場合、文章構成も読解と同様な傾向になるように感じる。
 論文やレポートなどでも考察が分析のまとめにしかなってない、という評価になりがちなのも帰納法による結果から先に進まない(進めない)こと(増田の『有機的に繋ぎ合わせる』ことができない状態と考えることも可能かと思う)によって引き起こされているように思われる。
 これに対し、トップダウンの場合は、当初から先に進んでしまったところを推定する(もしくは仮定、設定する)ものであることから、ボトムアップの問題点を解決してしまっているように、一見、思われはする。
 なぜ「一見」かといえば、増田のいう『ボトムアップの読み方』はその手法から論理的正しさを積み上げなければ破綻するがゆえに間違いに気付き、ある程度のエラー訂正なりその訓練から正しい論理展開を学習できるが、トップダウンは推論であるため、より高度な論理展開や状況把握などが求められることを無視してしまっているからである。
 とはいえ、読解に限ればトップダウンだけで高度な論理展開や状況把握を培うことはほぼ無理(極端に非効率的ではあるが、トップダウンで問題を解き続けてその解答の正誤からフィードバックしていけばできなくはない。当然現実的ではないが。)だと思われるが、文章作成や発言、会話、議論などのキャッチアップを用いれば、その繰り返しから習得することも不可能ではないし、それを実践している事例も存在するにはする。
 それを移入したものが、コメにも出てきた「アクティブ・ラーニング」や「問題解決型学習」につながっているのだと思われる。(同様にコメにある「単元を貫く言語活動」は同じ比較対象に並べるものではないと私は考えているので除外することにする。)
 しかしながら、学校の授業という限られた条件において、効率的に高度な論理展開や状況把握を培うことを可能にするツールなりスキルの向上なりが行われるわけでなく、題目が先行しているだけでは、はかばかしい成果は期待できないと考えても不思議ではない。
 また、正直、高校の時点でトップダウンボトムアップのいずれの手法も習得が不十分であるとするなら、二択だとして考えるならば、時間的な制約からもはや「アクティブ・ラーニング」や「問題解決型学習」とか世迷いごとを言っている場合ではなく、増田のボトムアップを主体として教育を行うことが順当であろうと私は思うし、場合によっては、エンカレッジスクールのような形態の方がより現実的な解決方法という気もする。
 個人的には、中高一貫でない場合は特に、トップダウンが正しく行使できる能力を身に付けるための訓練は小学校までに完了してしかるべきだと思っているので、『教員養成大学の初等教育コースなんかでは、もう完全にボトムアップの読み方は無かったことにされ、トップダウン式の読み方こそが素晴らしいと教えられている』というのは、さもありなん、とは思いもするが、だからといってトップダウンだけでいいわけではけっしてないということも知った上で教育を行わなければ、子供の正しい成長には寄与しないと思う。
 理想と現実というのはごにょごにょな関係であるため致し方ないところだとは思うが。

 では、コメを少し。
 『大筋から理解しようとするのが悪手に見えるのは日本語のテキストが総じてクソだからだ。』。
 表面的、結果的な事実としてはそうだと思う。
 ただ、『悪手に見える』と表現してしまうと、コメ主の本意がどこにあるかは推測でしかないが、コメ主が悪手だと認知させられてしまっているのなら、みごとに術中にはまってしまったといえるのかもしれない。
 ペーパーテストレベルでいえば、解答を求めるためのパズルがぐちゃぐちゃに配置されているのが読解すべき文章なわけで、解答するための手法を教化するために問題が作成されることを考えれば、その目的に即した文章が選択されて当然だと考えるべきではないかと思われる。
 しかしながら、社会活動においてそういった好例に類する文章群や書類、報告書などばかりを処理するわけではないことも補足的に教授する必要はあるのではないかと思う。
 個人的には、『いわゆる「文学作品」について、国語から切り離すべきとかそうじゃないとか』という議論においては、言語教育において文章構成(作文とはまた別)や論理性、言語認知、文法などと分けてしまおうというのと同じく、デメリットも正しく認知した上で施行されなければならないのではないかなぁ、と思いはする。
 が、言っても詮無いことではあるし、なるようにしかならないことだとは思うが。
 結局のところ、これも社会的に自ら与えられてきた道具で解釈できなければクソ認定しても社会的に問題視されることのないシステム上で活動している関係上、その時流に即した最適解としてはありだとも思う。
 また、同様に『大雑把に絡げて作った国語という科目を解体して、修辞学、文法、論理学に戻したほうが、それぞれの力はつくと思う』という部分ももっともな考え方であろうと思うのだが、残念ながら分割すれば分割したで官僚的セクショナリズムという属性も互いに付加されてしまうため『根っこは同じ』という考えに基づく修辞学、文法、論理学を統合的に扱う能力は涵養されないように思う。
 そもそもそんな能力を表立って教えてないじゃないか、といわれればしょうがないかもしれないが。

 『学生の悩みに沿った(「共感」しうる)文章をもっと載せてもいいと思うんだよね。』。
 私も教育を受ける側にいたとき(学生のころ)はそう考えていたものだ。
 ただ、よくよく考えてみると、印刷配布が可能なほどの部数を発行する教科書を用いて一対多で教育を行う以上、同じ教科書を持たされたすべての者が共感し得る文章を提示できるとは思えないし、どんどん個人の価値観が広がっている昨今において、共感する比率の高い文章がどんどん減り、共感する比率そのものも下がっていくことを考えれば、現実的に無理なんじゃないかと考えたのがうん十年前である。
 そこから時が流れた現状を想像すれば、多様な認知手段や分析、解釈手法を持っている者からすれば、コメにある『教科書はもらった日に全部読んでたし成績もそれなり』という状況を呈するし、一方では面白くないから能力となり得ないという意見から面白くするために教育方法をこねくりまわすといった方向性も勢いを増すのではないかと考えてしまう。
 実際に解答は持ち合わせていないのだが、『共感はダメでも理解なら…という文章も教材として一定数必要』というのは前提条件として、そこから先の表面上『共感』できない文章に対して興味を持たせ、理解に導かせる方法があるのか、そしてそれがこれまでの教育手法で「共感できない」と声をあげていた者を掬い上げられているのかがうまく想像できなかったりする。

 『ソシュール的に言えば、シニフィエ?』
 非常に大事な概念だとは思うのだが、私がFラン出だからなのか、その後も努力もせず社会の日陰でうろちょろしていたからなのか分からないが、いわゆるシニフィアンシニフィエの関係を認知していたところで、ウケのよくない飲み会の薀蓄レベルにすぎなかった。
 もっと高度な領域であれば話は変わるのかも知れないが、多分、そういった領域の者は、一般化された理論を提示しただけで自ら検討、分析し、具体的手法にまで昇華しそうではある。
 あと、いらぬおせっかいだとは思うが、ソシュールの理論で気をつけなければならないのは、共時性(言語の歴史や時間変化ではない特質)を重要視している関係上、教育という言語認識などに変化をもたらすための行為とは競合する場面もあることを認識した上で適用することが肝要ではあろうと思う。

 『「「国語」はある種のイデオロギー的なもの」と教わりました』。
 『ある種』とは何かを書くとこれまた大変な分量になるのだとは思うが、私は、そもそも国語教育自体がイデオロギーと教わった口である。
 教授らの考え方の違いというのもあるとは思うが、突き詰めていくと言語やその理解力などを授けることが社会的思想を形成するための重要な基盤の1つであるとすれば、それに組する行為は総じてイデオロギーということになるのだろう。
 ただ、実際のところ国民が近代的な生活を送るためには、イデオロギーなので忌避するとかどうのとか言っていられないわけで、学級運営の権利と責めを負う教員がイデオロギーなのかイデオロギーっぽい何かなのかも関係なく、適切に調整し、教育を施すしかないのかなぁ、と思う。
 他人ごとだから好き勝手なことを言っているようだが、これも先の教授が言ったことだと、言い訳を打っておく。

 『センター試験ではどの科目でもトップダウン読みが求められるのでどれだけ熱弁しようがムダ』
 うーん、まぁ、センター試験以外で日本語などの言語活動を行わないのならばそれでいいちゃあいいんだが。
 それはそれとして、学校教育が試験のために存在するのであれば、全くもって無駄だと思う。
 また、その考え方で幸せに一生を終えることも不可能ではないし、逆にそうではない考え方を習得したとしても不幸せな人生を送るかもしれない。
 お互い思うとおりに行けばいいと思うけどなぁ。

 『読解偏重の国語教育ってどうにかならんの?/話をきちんと聞く方法とか、ちゃんと会話する方法とか、教えてないだろうが、国語教師よ。(中略)指導要領変えてくれよ。』
 増田は高校教師なので、具体的な意味で『話をきちんと聞く方法』といった学習は小学校の学習指導要領によるとしか言いようがないとは思うが、高校の学習指導要領にも各学年の差こそあれ、「話す」「聞く」「書く」「読む」を学習することは当然明記されている。
 明記されているのにもかかわらず教えられてない気がするのは・・・・「気のせいだ」で済まされるわけではない。
 ただ、文部科学省のHPに公開されている当該学習指導要領をみても分かるとおり具体的な手法がすべて網羅的に明記されているわけではない。
 様々なもにょもにょした理由から教員の能力はすべからく均質で能力を評価するにあたらないとされている関係上、俺が教えてもらえてないのは全国すべての同じ科目の教員が悪いという論理も可能ではあるのだが、前提が捻じ曲げられている以上、現実的には教わった教員の能力が低かったとしか言いようがなく、増田に責任はなかろう。
 まぁ、学習指導要領が改定されても1文字も読まない者もなかにはいるので、何ともいえない世界なのだが、いろいろ書くと刺されそうなのでやめておく。
 マジレスすると、『授業で教えたり評価するのは難しい』とコメにあるとおり、面倒くさいというのが大きい要因だと思う。
 単に評価の数値化云々という問題ではなく、すべての行為の結果を評価として示せという社会的要請に対応することに無理があるというか。
 そもそも教育自体、行為の評価にさらされる社会に適応する能力を習得するために行っている行為の連続体なわけで、前者の行為は評価されるのは当然として後者の行為(行為の連続体のその一断面)を逐一評価する必要があるのか?ということに疑問を持っている。
 先の要請を満たすためには、習得するための行為の一断面をその目的とは関係なく無理やり評価するか、段階的習熟度が測定しやすい事項のみを行って評価するかということになるのだろうが、結局は後者に行き着いているように感じる。
 一概に何ともいえないが、教育されない事項の存在に気付いたならば、自ら学ぶといった自衛を行うしかないようには思う。
 ただ、個人的な経験ではあるが、いくら聞くのがタダだからといって授業で教えないことを関連する教科の教員に聞くことは非常に軽率な行為となってしまうこともあるので注意は必要である。
 なぜなら、そのジャンルの教育の能力が低いことを自ら自覚するがゆえに教えることを避けている場合もあるからだ。
 そんな教員が今はいないことを願いたいところではある。
 あと、『小学校以来、「感じたことをそのまま書きましょう」式の理想論ばっかりで、型を学ぶとか、構造を考えるとか、そういう重要なことを教えない。』というのも教員によるのだとは思う。
 私の経験でいえば、中学校時代に提出した作文が添削して返されるのだが、数箇所単語に側線を引いて×印を入れられていた。
 国語の辞書に載っているレベルの単語で特に用法も間違えていないと思ったため、意味が分からず、教師にその理由を尋ねると、「そんな単語知らん!」とぶち切れられたことがあった。
 辞書ぐらい引けよ、とうんざりしたものだが、およそ力関係というものは往々にしてそういうものであろう。
 『重要なことを教えない』というより、重要かどうかも認識できないし、教えることも当然できないという状況も教員の質によってはなくはない。
 こういったことも先述のとおり自衛を行うより有効な手立てはないようには思う。
 ちなみに私は自衛することもなくやる気もなくし、めでたく転落していったわけだが。(あぁ、人のせいにすることのなんと甘美なことか。)

 『見出しだけ読んで、詳細を読むべきかどうか判断できることに価値がある』。
 これは、ボトムアップでもトップダウンでもない手法(トップダウンの1プロセスと取る人もいるみたいですが)で、スキャニングとか探索型とか呼ばれる手法にあたると思われる。
 これも、以前ネタにしたことがあるが、昨今のページビューを稼ぐための手法として作為的に本文を捉えた仕込みを見出しにしてくるといった手法(要は見出しではなくアオリ)が横行しているため、簡単な問題ではなくなってきているように思われる。
 また、この内容とは直接関係ないが、インタラクティブ型というのも提唱されていて、激しく大雑把に表現するとボトムアップトップダウンを同時に行う手法である。
 あと、とりあえず面倒だったのでボトムアップトップダウンを思考の道具であったり認知、解釈のプロセスであったりストラテジー(目的をもった手法、手順やその行動計画)をないまぜにしてしまったが、発散しそうなので分けなかった。
 実際、スキャニングも文章構造を主体にした場合と読解者側を主体にした場合で位置付けが変わるため説明が面倒だったりしたのもある。
 と、書いた記事の前提条件をこんな位置でばらすのは、まぁ、いつものことだ。

 『高校で学ぶ「漢文」の必要性について伺いたい。/高校授業での漢文は、文化を学ぶ側面が強いと感じていて、国語よりも芸術・歴史科目にカテゴライズされるものだと思う。』。
 私も教育関係者がどのように捉えているのか興味がある。
 個人的に、高校のころ、「「漢文」あるのに、なんで和歌とかは独立してないの?」と思っていたりした。
 「漢文」という素養が日本人としてのいにしえのたしなみという観点からすれば、そう考えてもいいのではないのか、と思ったものである。
 個人的には、漢文はテストの点数が極端に悪い英語を補完できる分野で重宝してたので悪くいうことはできないのだが。



 あ、あとこういった必ず自身が体験していながらその専門性を必ずしも持ち合わせていない領域において「わかってない」と反論している内容が、「それはひょっとしてギャグで言ってるのか!?」と感じざるを得ないことも多い(当然分かった上で撹乱させるためにやっている場合もなくはない)のだが、何というか世の中色々なのだなと感じる。
 裏返せば、私の書いた内容も私の無知さゆえに「それはひょっとしてギャグで言ってるのか!?」と思ってもらえる箇所があったならば、「ばっかじゃねえの?うけるわ」と流してくれれば幸いである。