定義以外の選択肢

 増田ネタ。
 今回は「今日は料理作って待ってるねといってた彼女が」。

 とりあえず、先にオチを書いておくとすれば、事象を超越した真理としての定義を追求するよりかは、料理を作る側と作られる側の意思疎通により設定するものこそが定義となるのではなかろうかと思う。
 そういった部分に一方的で無理があったり、歪んでいたりして、ゆくゆく家族が増え、作る側が飼料と考え、作られる側が自身の思い通りにいっていると思い込むのは、その周囲の者を不幸にしていると思うからである。
 私はふるい人間なので、少なからず同一戸籍に載る者は食事に関する密接な関係が常時存在し、また大きなウエイトを占めると思う口だが、昨今の極端な個食の深化から、こういった視点自体に全く意味があるとは感じない若者もいなくはない。
 ただ、そういった部分も含めて双方が共通認識を持つことも重要かもしれない。


 で。
 この増田の記事で意図的なのかどうなのか分からないが、「料理」がなぜか「自炊」に置き換えられているところが注目すべき点だろうか。
 私自身としては、『料理作って待ってる』という表現における「料理(狭義)」と、自宅にしつらえた食べ物があるという「料理(広義)」と「自炊」は分離して考えなければならない。(「しつらえる」を食品に使うのはおかしいが、ここで言うと主体が美しく整えた対象物ぐらいととらえてもらえればと。以下同じ。)
 まず、「料理」と「自炊」は作られる側が異なる。
 「料理」は作る側と作られる側が存在する(自身が作って全員で食べるとか料理人が試作して自身が食べるような場合を除く)以上、相互の「料理」に対する認識の差異を考慮しなければならない。
 一方、「自炊」は作る側と作られる側は一致しているため、その食べ物に対して「自炊」の認識の差を考慮する必要はない。
 考慮する必要が出てくるのは、個人間での「自炊」ということばに対する言語認知の段になって初めて表れるということになろう。
 しかしながら、例えば自身が「自炊」であるとし、他者が「自炊」だとしない食べ物が他者の評価で変化するものではなく、また某領域のように競うものでもない。
 とはいえ、「自炊」のスキルを「料理」のスキルに転用できることは当然誰でも理解できることで、当人の「自炊」行為の有無から「料理」行為のレベルを推測してしまうことも不思議なことではない。
 「料理(狭義)」であるが、ここでは不特定多数の者に提供する飲食店の料理人でもなく、ファストフード店のオペなどにおける提供する食べ物に対する意志を介在させず一部のプロセスのみを作業するものでもなく、増田本人のためだけにしつらえる食べ物であるがゆえに、増田本人の期待度および想定する食べ物のレベルについても付帯して変化しているものと思われる。
 例えば、『料理作って待ってる』と「他の連中のもんを作るついでに何か作っといてやる(ツンデレ要素なし)」とでは、想定する食べ物が違ってくるのではないか、と感じるのと同じことではなかろうかと考える。
 「料理(広義)」はさらに扱いが大雑把過ぎるような領域で、ひどい話、主宰にとってそこに食べ物が存在し、もてなせることができれば「料理(広義)」というのもあったりする。
 ホームパーティーでその日のためにシェフを雇おうがケータリング+セッティングを専門業者に委託しても「料理(広義)」というように教えられたりしたものだが、まぁ、あまり必要性のないことばの意味ではある。
 あと、「そこなへんにあるもの適当に食っとけ」という書き置きをするのも当人に言わせれば「料理(広義)」らしい。
 もはやエア料理の先を行く領域である。
 このように「料理」自体には単に可食性の物質という意味から離れた領域まで含み、限定的に用いられる場合は、自らの認識と別次元な位置関係にあるレベルの状況を呈し得るということが重要だろうと思われる。
 こういった状況を緩和するには、双方の認知の抽出と理解、受容を繰り返すしかないだろうと思われる。

 さて「自炊」とはどういう定義か、というのは別の問題としてとっておいたので、ここで書いてみる。
 これも先述のとおり個人でいいように設定すればいいと思うのが正直なところである。
 というのも、「自炊」の基準を設定することで、ここまでできなければ料理じゃない、などという敷居が日常的に食べ物を整える行為さえも妨げるのでは意味がないと思っているからではある。
 まず、いつものパターンではあるが、「炊」とは何なのかを考えてみる。
 訓読みでいうと「たく」という形になるため、液体で食材を煮るような行為を差すように思うかも知れない。(「煮る」と「炊く」の違いはここでは重視しない。)
 が、実際は「火」と「欠」でできている漢字である。
 「欠」は小学校で人を横から見たものと習うと思うが、「人」と違うところは、口を開けることを伴う行為、行動、感情などを指すところにある。
 事例はいっぱいあるのだとは思うが、私は「歌」と「欠伸(あくび)」ぐらいしか思いつかない。(「吹」は「口」がついちゃってるし・・・)
 ちなみに、これも小学校で習うかもだが、「欠ける」という意味の「欠」は同じ字ではあるが成り立ちが違う。
 で、「火」に対して人が口を開けて何かをする行為とはなんじゃろ?といっても若い人たちは理解不能かも知れないが、かまどで火をおこすことを指すわけである。
 かまどで火をおこすという行為は、キャンプなどで飯ごう炊さんをやった者は分かるかも知れないが、とにかく面倒くさい。
 スイッチを入れれば飯が炊け、ボタンを押せばコンロで湯が沸かせられるし、煮物も炒め物もでき、電子レンジも使える世界からすれば、ちょろ火から同一の機能を満たそうと思うと気が遠くなるものである。
 結局のところ、「炊」に関しての機能としては、火を用いて食材に何らかの変化を与えることになるであろう。
 当時としては汎用のかまどでできる行為はさほど多くなく、「たく」で事足りたということだと思われる。
 現在において言えば、必ずしも火だけではなく、熱に変わる何らかのエネルギーを加える行為全般を含むと思われる。
 これとは別に、「炊」の心理的障壁としては、非常に面倒くさく、さらに一日に複数回同様の行為を強要されるものの、コンビニがない時代からすれば、やらなければ飢えるのみという現実が待つというものである。
 先の例で言うと、電子レンジが簡単な行為だから「炊」にあたるかどうかを考えるとするならば、同様にボタンを押せばコンロが使える状況も「炊」ではないと考えても不思議ではない。
 しかしながら、「炊」の漢字が成立した当時の文化レベルに必ずしも合致させなければならないわけでもなく、言語とはそもそも流動的であるものである。
 で、前置きはここなあたりまでとして、個人的には、ある意味定義が面倒なので、もう火を用いて食材に何らかの変化を与えること(それに類することも含む)でいいんじゃないの?という気がしている。
 コンビニ弁当を買ってきて自宅でレンジアップしたら自炊なのかよ、と言われれば、もうそれでいいじゃん、という。
 語弊はありすぎるとは思うが、自宅のレンジを使っているということは、それ以外の行為としてもレンジを使う可能性があり、その可能性が料理などへの興味につながるなど考えられるなら別にいい気がする。
 そういう意味では、店でレンジアップした場合は自炊とはしないわけだが。
 ただ、これだと自炊っぽくありながら自炊でないものも存在する。
 サラダや刺身などがそれにあたるだろう。
 生食系はさすがにどうしようもないと思うので食卓上で整えたり刻んで混合する行為だけで自炊扱いするよりほかないだろう。
 多分、他にも例外はかなりありそうではある。
 個人的な話だが、その昔、柿ピーを砕いてマヨネーズで和えたものを肴にビールを飲んでいたこともあるのだが、それが自炊にあたるのかどうか、ぐらいが多分「自炊」の限界な気がする。
 あ、それ以前に白米を炊飯した時点で加熱された食品が作成されている関係上、自炊が成り立つ。
 これも惣菜を買ってきて炊飯すれば自炊が成り立つのでそれは認められないという者も多いかとは思うが。
 いずれにせよ、私はかなり広めに「自炊」を適用してしまっているが、逆にいえば、自炊を意識しない者が家食をした際に、それが適用されるケースは家食の比率が高ければ高いほど増えていくように思われる。
 詳しく統計を取ったわけではないが、身の回りでは、家食の頻度が高い割に常に適用外である者は成人病検査に引っかかっていたように思う。(そもそも同じジャンルの物しか食べないからだと推測するが。)
 そういった条件でないならば、自らの食事形態を思い起こすことで、先の適用されるケースを抽出し、そこから自らの食事形態のバリエーションが発展するきっかけになれば、とささやかな期待をする、という話ではある。

 まぁ、こじれないようにいいようにやればいいというのが、いい按配な状態への近道な気はする。(「いい」ばっかだな・・・)