こころざしの違い

 先日は「時事的な話題をシニカルなキャッチコピーで振り返るフレーズ大賞」みたいなの(なんか前回の記事と表現変わってないか?)について書いてみたが、当然ながら1年の区切りということで様々な社会と言語の関連性を示すポイントとして特長的な事項の抽出が各所で行われている。
 1文字、1単語、1フレーズを抽出するといった分かりやすい表現のものばかりではなく、大きなくくりで言えば文部科学省の「国語に関する世論調査」もその1つといえばそうかもしれない。
 そういった中で、あまり有名ではないが、先述の用語よりははるかに後々有用である可能性の高いと思われる賞を見つけた。
 三省堂の「今年の新語」というヤツで、もとは2014年に飯間氏が個人的に始められたのが発祥らしい。
 2016年時点でのレギュレーションは
 ・「今年特に広まった」と感じられる言葉
 ・自分自身や周りの人が、ふだんの会話等でよく使うようになった言葉
 ・流行語や時事用語、新しい文物でもかまいません
というかなり範囲が広いものであるが、飯間氏の2014年行ったイベントでは、『国語辞典を作る者として、既存のものとは少し性格の違う「ことばランキング」をまとめてみたい』、『2014年に生まれたか、または、特に広まったことばのうち、この先も使われそうなことばを集めて、ベスト10を決めます』とあるとおり、背後にある精神というものは、いわゆる国語辞典編纂における鉄則ともいえる極端に狭隘な時事性を持ちかつ言語の機能として他への流用性が低い物を排除すること、語義が極端な流動性を持つものではなくある程度安定し一般化、抽象化され通用(大きなエラーを伴わず意志伝達が可能な状態)することなどが選択基準となっているのではないかと想像する。
 そういう意味では、先の大賞は、発表されたときにその年の事案を振り返るためのフレーズといった形態をした使い捨ての符合札(参照用ラベル)であって、こちら側は今後も言語の一部として用いられる可能性が高いと思われるということで有用性が高いということになるのだと考えた。
 また、『三省堂の辞書を編む人が「国語辞典風味」の語釈(語の解釈・説明)をつけました』とあるとおり、思った以上にぼんやりして境界があいまいなことばのイメージが明瞭化することも利点の1つではないかと思われる。
 ただ、少し残念かもしれないのは、取り上げたことばが世俗の辺境にいるような私にとってほとんど「ああ、それな。」と思ってしまえるのは、本当にその選択でよかったのだろうかと不安になるレベルということぐらいだろうか。
 ちなみに分からなかったのは、「エゴサ」と選外の「チャレンジ」だった。
 「エゴサ」って、最近はそんな略し方すんのか・・・、とか思ったり。
 で、それでは少しその感想でも。
 知っている経緯がクラブとかの用語からというのが2つ「エモい」「パリピ」だったりしてそれはそれでジャンル的にどうなの?という気がしたが、それが最近のEDMの流行(プチ流行???)と関係があるのか、それとも本質的に言語流通のメインストリームが別のところにあるのかはよく分からない。
 総評に『「エモい曲」「冬はエモい」など、非常に多くの例』とあるのだが、前者はいいとして後者のような例に遭遇したことがないところからするに、さすがに私は流行に乗り切れていない(置いていかれているとも言う)というところかもしれない。
 「エモい」の広義な意味を認知したとしても、果たして「冬はエモい」と言われた際に発言者の「emotion」を多分共有できる自信がないと思ってしまうのは私が保守的だからだろうか。
 「パリピ」は、、、、
 地蔵だからなぁ。
 その世界の体験すら縁遠いというか。
 どうでもいいけど音が悪いと英語ができない私からすると全部濁点で聞こえるんだよなぁ。
 「バーリ゙ービーボー」って感じで。
 どうでもいいな、これ。
 同様に、まだある程度流動性を伴っている単語もあるような気もする。
 例えば、「ヘイト」も義務教育レベルの知識として「アパルトヘイト」とか習う関係上、差別的な行為であるというイメージはあるとは思う。
 が、『にくしみから来る、差別的・犯罪的な行為(コウイ)』から『にくしみから来る、差別的な発言・表現。憎悪(ゾウオ)表現』へ、そしてさらに拡大解釈され、相手にカチンときたら「それ、ヘイト」とかいった自身基準の嫌悪感を呈する行為等の総称を最近では表現している気がしなくはない。
 要は肉体を損壊するような犯罪行為から建設的提案に至るまでのすべてに関して当人がネガティブと理解すれば「ヘイト」だと言いかねない風である気がする。
 そういう先鋭的な用法がどこ(いつ)まで続くかどうかは分からないが、あまり広汎なネガティブ表現を示す単語が練成されるのはあまりうれしくはないかなぁ、という気持ちではある。
 ちなみに、選外の「チャレンジ」は何のこと?とか思った口である。
 すわ、東芝か?とか思ったが、よくよく考えてみればそれは今年ではなく去年だったりする。
 およそ、こういった表現は、一部で頻用される「感謝」とか「愛情表現」「指導の一貫」などといった一方的で身勝手な解釈による局所的なことばの意味の再定義(一般には甚だしい誤用、もしくは実態を隠蔽するための隠語と解釈される)によるもので、辞書で扱うべきものではないと思われることから、結局何なのだろうと思ったりした。
 「チャレンジ」の特殊な意味としては、民事訴訟において裁判官忌避を申し立てるのがそう表現していたように思う(ググっても出てこなかったので間違ってる可能性は高い。じゃあ、拡散させない意味で書くなよ、と未来の私は思っているかも知れないがとりあえず書いておく)のだが、いくらなんでもそんなことが流行るはずもない。
 で、総評を読んでいるとスポーツのチャレンジシステムだった。
 うーん、言われないと分からんが、言われれば、ああ、なるほどとか思ったり。
 要は正規な手続きとして審判の判定に異議を申し立てることができるというルールで最近の撮影技術の向上によって肉眼で判別が難しいような状況も確認ができるという技術革新とあいまったシステムであろうと思う。
 技術的な分野からすれば競馬の写真判定なんてのは当時よく考えたものだと思えるすごいシステムだし、ルールの面から言えば、例えば相撲の物言いなんてのも多様な視点で判断するプロセスとして機能すると考えればそれに該当するのかもしれない。
 そういえば、数日前かそこらにFIFAクラブワールドカップにビデオ判定を導入するとかで話題になっていたと思う。
 それにしても、『最近、スポーツでの用法により、「抗議・異議」という意味が英語にあると知られはじめたことは注目すべき』ということではあるのだが、「挑戦」とかいった意味からなぜ「異議を申し立てること」みたいな意味が生まれたのか気になるところではある。
 ざっと調べてもその答えがよく分からなかったのだが、それは国語辞典の範疇ではなくオックスフォードとかの領域なのだろうか。
 あと、少し気になったのは、「レガシー」である。
 まず、先に単に意識高い系の人が恰好よさげだから使っている場合は除くとして、『英語本来の意味は、「遺産」「遺物」』とした上で、『あるイベントのためにつくった施設が、のちのちまで再利用できること。また、その施設。』としてしまうのは、少し、なんとも、もどかしい気がしてならない。
 というのも、日本語訳として「遺産」というと「legacy」と「heritage」が挙げられる(「bequest」はめんどいからパス。多分、相続といった遺産を分割、受領するような行為と考えた方が主な使われ方としてはいい気がする。)が、使われ方は前者はスバルの車名で後者は世界文化遺産とかである。
 まぁ、冗談はさておき、いずれも対象物(有形、無形の別はなさそう)が過去から未来に向かう時間的範囲をもった価値として認識されるものであることに変わりはないのだが、後者はどちらかといえば、自然などの人工物ではないものや人工物であれば文化、芸術、教養などとしての価値を持つものであるのに対し、前者は主に金銭的価値を持つものとして区別するものではないのだろうか?と思った。
 『今年就任した小池百合子東京都知事が「レガシー」と繰り返していた』とあるとおり、(『東京五輪の計画に関する報道でよく聞』いたとする場面ではいかなる意味で用いていたかは分からないが)施設整備などといった有形のインフラにおいて、昔ながらのぶっ潰して新しいのをばんばん作れば価値も上がってうはうはですわ、という時代ではなく(実際として地価などは上昇するので現象として存在しないわけではない)、ストックマネジメントといった発想をしなければならないことから考えれば、作る時点でおいてさえ将来的に「レガシー」がいかなるものかを熟考し計画し実行に移す必要があることを含め、小池氏は言いたいのではないかと思っている。
 直近の「もったいない」的な発想が「意地汚い」という意味を含むネガティブな意味を持ちがちなことについて良いか悪いか判断したいとは思わないが、「遺産」「遺物」から「残留物」「残り物」「使い古し」といったイメージを抱く可能性もなくはない(実際にそういう意味も一部あるのは目をつぶるとする。)ため、「レガシー」を考慮することをネガティブな意味での中古を意識することといった概念に短絡してしまえば、本質的な意味を失いかねない。
 また、未だハコモノ至上主義がはびこっている(今回の件についてはその理由を書く気もないが)のだが、作成したハコモノが全く変質せず、同じ機能を維持し続けることだけが「レガシー」であるわけではなく、ライフサイクルマネジメントや先述のストックマネジメントにサスティナビリティマネジメント(持続可能性に関するマネジメント)を付加した考え方からすれば、例えばイベント終了後に部材として様々な場所に流用されるなどといったものも「レガシー」の1つといえる。
 果たして後に比較考察される時期が来るのかどうか分からないが、「レガシー」とか持続可能性などというワードはロンドン五輪でクローズアップし用いられたわけだが、東京五輪の計画書関連にはロンドン五輪以上に持続可能性などということばがこれでもかとばかりに埋め込まれている。
 しかしながら、結果を見なければ分からないが、東京五輪の方向性としては、先述の単語の数は書類上多いが、やっていることはロンドンよりレベルが低いと感じる。(適用範囲が原則調達、サービスに限られている時点で察し・・・)
 そのまま行ってしまえば、オリンピック史の一分野において反面教師という「レガシー」を残す、という可能性もあるのだが、その頃にはかなりの人間が「レガシー」(金額的正負は問わない)を残してあっちに行ってしまっているわけで。(うまいことを言おうとしたわけではない。)
 ところで、『既存の航空会社のことを「レガシーキャリア」とも言います』とあるように、LCCの対極としてLCがあるわけだが。
 LCCの「LC」は「low-cost」の略で、じゃあ「ハイコスト」なんかというとそうでもなく、航空規制緩和よりも前から長い期間営業しているという意味で「ロング」かというとそうでもないという。
 なんで「レガシー」なのかは英語のできない私には謎である。