昨日のWBS

 多分、書いた本人が具体的に何をもって書いたのか忘れそうだが、何となくもやもやしたものを吐き出すチラ裏ということで。(最近疲れてるなぁ、、、スルー力低下しすぎだ・・・)
 あと、以下、無能、有能とは個人の総合的な能力、技能等をひとくくりにした侮辱、賞賛としての含意をもつ表現としてのものではなく、とある条件のもとに範囲設定された目的、内容、事項を達成する、満たすための能力、技能、特性の有無を指す。
 また、その有無に感情的な良否等は存在しないことをまず書いておくことにする。
 で、考えたことというのは、無能であることを可能にするといった本来の目的ではない技術や手法などの転用(主に意識、無意識に関わらず悪用といってもいい)が可能な場合、特定の非常に鋭敏に反応が起こるような事象(時代のトレンドにもよるが例えば軍事転用とか人権侵害とか環境破壊とかそういうものをイメージしていいかとは思う)でない限り、思った以上に速いスピードで無能であることを前提としたシステムが策定され定着しそれがはるか昔からあるべき姿だと喧伝され、さらにそれを下回る、下押しするように先の無能の周辺領域を浸蝕し無能な属性を持つことを実現するシステムへと働きかけていくものなのだな、ということである。
 昨今の多様性云々と言いつつも目先の効率性を極限まで追いこみ、その効率性によって受容どころか低評価のレッテルをありったけ貼り付けていくことからすれば、その判断手法から高速に低きに流れる(それが「低い」のかどうかは別にして、慣用句としての話だが)のはしょうがないことだとは思う。
 それがいいことなのか悪いことなのかはどうこう言う気もないのだが、ただ、無能が前提であれば、有能が無意味である、さらに突っ込んでいえば規定されたシステム内において有能が個人の性能の対外的な判断としてネガティブになっていく可能性も高くなる気がした。
 というのも、無能が前提のシステムにおける例外処理をそぎ落としたプロセスにおいて、有能な状態、対象を処理する例外処理が発生することはそれなりの負荷なりコストなりがかかるだろうからである。
 こういう部分も同一の目的を果たすために複数存在するシステムを俯瞰的に見た上で流行の「分断」なるもののひとつなのか、とか思ったりしたが、何というか、ぶっちゃけいいのかそれで、、、と思ったりした。
 古い人間がそう思うだけで、別に今の人にはいいんだろうけども。