今週のお題「何して遊んだ?」

 「遊び」というのには制約条件があると思う。
 いや、接合部の隙間とかそういう意味での範囲という話ではなくて。
 それへの感じ方は人それぞれだとは思うが、個人的に大きいのはまずデバイスだろうか。
 高度成長期以降の物質社会のさらなる成熟に伴い、ないのがあたりまえか、あれば崇められるのか、ないと引け目を感じるのか、ないと集団での行為が阻害されるのかというレベルの差こそあれ、少なからず、あるに越したことはなく、なくて享受できるメリットはほぼないように思う。
 実際のところ、器具と呼べるようなある程度までなら自作が可能なものであるとか、昔からあるもので代用できるものであれば、後塵に拝するともその対象範囲として認知されないなどということもなくはないが、ブランド製の高い人形や金属製の版権物ロボット、新しい流行の遊具などの場合どうしようもなかったりする。
 ましてや昨今の電子デバイスなど、買い与えられなければ完全に無理である。
 また、こういったデバイスの有無を規定する可能性が高く、また他にも影響するのがカネである。
 先のデバイスの有無は、単純に貧乏かどうかという観点と買い与える気が保護者およびその周囲にあるかどうかにあろうかと思う。
 これとは別に、カネを所持できるかどうか、携行できるかどうか、どの程度の権限で行使できるかどうかがあろうかと思う。
 こういったところに極度の制限かかかると、気兼ねして友人同士で店に入れない、公共交通機関で移動できない、2、300円程度の施設でさえ利用できないなどといった非常に些細な本来の目的以外の部分における障壁が大きくなる。
 多分、遊びというとおにごっことか砂遊びとかかくれんぼなどといったおよそ校内で休み時間中にできるような特段ものなどを必要としないものをさすとは思うのだが、個人的に学校外での遊びについて先の制約条件を強烈に意識せざるを得なかったので、そればかりが頭をもたげてくる。
 小学校時代、無二の友人(だった)と校外で遊ぶ機会が多かった。(とはいえ、それでも月1とかレベル)
 で、そこの家は自営業(建築資材卸と設備工事をやってたっぽい)で結構な金持ちで、当時一番驚き感動したのは、ジュースがおかわり自由(もとのビンごと持ってくる)なことだったあたりが、今思えば悲しいやらあさましいやらである。
 そして、当時としてはかなり珍しかったビデオデッキ(記憶が曖昧だが多分VHSなんかではなかったと思う)があって、それを再生してボーっと見てたりした。
 私は一人っ子だったが、そこは兄弟が多く、私のそばで兄弟げんかが行われてしまっているのもある意味別世界だったように思えたものである。
 当時としては、実生活の特殊性(ここでは「遊び」に関して)から、別に1人でも完結できるが、多人数のなかで自身が空気でいることができる場であることに意義を見出していたように思う。
 たとえ同じ行為であっても満足感などといったものが付帯することが「遊び」と呼べるものなのではないか、もしそうならそれが「遊び」としていいかな、と思ったりする。
 で、そんな感じのまま大学進学後、一人暮らしとなり、バイトなどでこっそり使えるカネができたことによりそれまでの反動が一気に噴出し、本、コミック、雑誌、同人誌などを買い漁ったのも、多分、別のレベルでの「遊び」なのだと思う。
 と、ろくにちゃんと遊ぶことさえせずに無為に過ごしてきた人間が書くとこんなものかと。