理解の仕方、され方

 増田ネタ。
 今回は、「「い」抜き言葉が気になります」。
 何となく、最近増田の問題提起とは無関係な領域としてネタ探しに増田の場を利用しているような気がしなくはないが、それは置いておくとして。

 文法的な揺れの問題として増田の提示する補助動詞の「いる」以外にも例えば「一緒についていく」→「ついてく」みたいな「いく」もよく似たつづまり方をしているところからして、まぁ、総じて補助動詞はそういう運命にあるのかなぁ、と思ったりする。
 多分、言語学的アプローチとして考察するものとしては、どこかで散々やってそうなので省略するとして。(というか、専門じゃないので)
 個人的な言語という事象の扱いとして、相互伝達のための道具に過ぎないと考えているため、とりあえず伝わってれば容認する方向だったりする。
 要は可用性をどう考えるか、ということであって、義務教育などで規定された文法と比して完全性を求めるのか、どうにか伝達機能を満たしていることを是とするならば、つづまっていない表現は効率の関係から冗長であると心理的に捉えられても仕方がないのかなぁ、とか思う。
 私の場合は、もっぱら文章中では「い」あり、口語では半々ぐらいな気がする。
 古い人間なので、そういう意味では、「い」あり側だと思う。
 ただ、仕事系ではない文章においては、意図的に「い」を抜くこともある。
 それは、感情的、感覚的な発露を咀嚼して言語変換せずに直接的に文字に置き換えたことを表現したいときとか、日本語の技法として正しくないが、話しことばを文中に修飾語的に混ぜて書くときに使ったりする。
 あとは、眠くて疲れてるときとか(←こういう感じで)

 さて、実のところ増田のいう『わりとしっかりめの書類やメール』でこの現在進行形の「いる」が多用される状態をあまり経験したことが残念ながらない。
 というか、扱っていたのが業務上の文書やビジネスメールだと、「今、やってます」とかそもそも行為が継続的に実施されているのは分かりきっているわけで、実際どうなの?ということを求めていることが多いから、という気もする。
 あえてその継続性を際立たせたい場合は、補助動詞ではなく「○○が継続中である」などといった大仰な文章構造になっているように思う。
 ただ、それは業務内容がロングスパンなものだったこともあるかもだし、あと今や若者とメールをやり取りすることも皆無なので現状を理解できないのもある、という偏った事情があるかもだけども。
 まぁ、およそ「○○ています」は「○○完了しました」「○○は△△時間いただきたく云々」もしくは「まだです」ぐらいしか許容されない(最後のは別の意味で許容されないが)世界だったりしたわけで。
 とはいえ、確かに他企業への案内状とか保護者への案内状などに至るまでオフィシャル文書っぽくしたためられている書類に「い」抜きが出てくると、少し肩透かしを食らった気が私ならするとは思うが、とりあえず意味が伝われば、まぁいいかと思い直すのではないだろうか、という気はする。

 で、「か」抜きだが。
 『なぜ最後に「か」をつけずに語尾を上げることで疑問文にしようとしているのか理解できません』とあるのだが、先の言語の機能でいうところの伝達という意味で、受け取る側(ここで言えば増田)が『疑問文』と概念的、恒常的に認識している時点で『理解』したことになってしまっている。
 私自身これまでこういうことを他者に話す機会が何度があり、大抵猛反発されるというオチがつくのだが、あえて書いてみた。
 これも、先に説明したとおり、言語の機能である相互伝達の可用性を考えれば増田が「理解」した時点で可用性が確保されてしまうことによる考え方である。
 ただ、注意すべき点は、3つあって、まず、言語による伝達は意味だけではなくある程度それに付帯する感情が乗ることを考慮しなければならないことがあると思われる。
 これは、文字にした際の文字列の意味から作り出される感情ではなく、それ以外の、例えば、その文章の背後にある相手の感情や想像するひととなりなどから導かれる感覚的な認知といった感情の部分である。
 増田が『不思議な感覚』と柔らかく表現しているが、例えば、こういったケースに対して非常にネガティブに、もしくは否定的、人格なども含めた全否定的な感情が相手側にもたらされるのであれば、発信側はそのリスクを考慮しなければならない、ということだと思われる。
 これは、実例を示しにくいが、この逆の話でいえば、店の呼び込みのようなことばの意味とは別の臨場感とか購買意欲をかきたてられるとかいったものとして考えていいと思う。
 2つめとしては、立場的に逆の話で、例えば、増田が認知する規定されている文法と相手側が持ち合わせるそれ以外の文法(ここでいえば「か」抜き表現)を分類して考えるとして、少なくとも後者は双方持ち合わせる(ただし、一方は中間言語扱いによる変換を介してはいるが)ことで可用性が確保されたわけだが、前者である増田が認知する規定されている文法を相手が認知できない可能性を考慮しなければならない、というところがある。
 これは、発信者側が相手を学がない、と評価するかしないかは関係なく、言語の可用性が確保できるかどうかが本義であるため、考慮すべき点であるというだけの話であるが。
 ただし、こういった状況下での言語の利用/操作手法は人によって様々な流儀があるわけで、一概にどれが正しいというわけではないとは思う。
 例えば、フランス人に英語で質問したら答えがフランス語で返ってくるといった駄洒落の構造を説明する1つの考え方にもなりうるし、大きいくくりでいえば、サイネージ関連での外語の扱いなんかも同じなんじゃないかなぁ、とか思ったりする。
 3つめ。
 言語の機能を満たすかどうかという事象ではなく、教育という分野においてはその扱いが異なると思われる。
 およそ、先の2項目の伝達における欠落や付加、誤謬を最小限に押さえ、また中間言語的扱いを減らすことで効率化を図ることにある。
 特に2つめの個が認知する規定されている文法が近ければリスクは極端に小さくなると思われる。
 そういう意味では、ここではとある場面で偶然かどうか無関係に伝わればOKですまされる領域ではない。
 しかしながら、その内容というものは、現場レベルで正しく理解されていなかったり、また、過度な規範化はそれを啓蒙、推進する者が意図、意識するしないに関わらず、国家主義的な意味合いを持ってしまいがちで、色々と難しいところではあろうかと思う。
 個人的には、伝達するのに紡ぐことばは必ずしも1つしかないわけではないと思っているので、当人の判断で時宜を得た適切な使い分けできること、よって少なくとも義務教育で規定された文法は知った上でそれ以外の表現が可能なのであれば問題ない(これでも2つめの項は解決できる)と思うが、世の中そんなに甘くはない。

 で。
 なんだろう、「か」抜きな表現を見ると、ユーゴーの手紙(?→!のヤツ)を連想して微笑ましく思ったりするのだが、浸透はまだまだなのかなぁ、とか思ったり。
 昔は何となく近いうちに「?」や「!」レベルで絵文字がビジネス文書に踊ったりするのかなぁ、とか思ったりしていたのだが、さすがにそこまでには至らなかったっぽいが・・・