公害

 昨日、豊島の産廃撤去が完了したとのニュースがあった。
 ただ、どのメディアでも大々的に、というわけでもなく、ひっそりと、ではあったが。
 個人的にここまで来てしまうと怒りというものよりは、不謹慎ながら、感情が安堵に近いもので構成されていることに、逆に自分に驚いたりする。
 まぁ、40年そこそこも経ってしまうと牙も抜かれてものごとの捉え方も変わるわけだし。
 とはいえ、時間が当時の意識を薄めているとは思いたくもないのだが。

 今更な後出しの話だが、当時前川知事時代のゴタゴタから端を発しているとはいえ、当時に現在の結果が予見できたとは到底思えないところではなかろうかと思う。
 また、当時の県内での施設反対・賛成(特に何もないというのも含む)の温度差というものを感じていた関係上、何となく双方が歩み寄る機会を完全に逸して収拾がつかない、引くに引けない意地の張り合いに近い状態であったように思え、ずるずる長引かせることで騒乱を食い物にする者に牛耳られるよりもどちらかに振ってしまうのは、あってしかるべき選択肢だったように思う。
 ただ、その選択の後も双方が存在し続けることに変わりはなく、相互理解と融和が求められるはずではあったのだが、それとは別の方向に行政(また、ある意味では選挙民である県民も。とはいえ、私自身その時点では県民ではなかったので大きなことは言えないが)が進み、さらには残念なことに事業者自体も善良ではなかったということから、歯止めなく暗黒面に落ちていったということになろう。

 個人的に、システム的な問題として挙げたいところとしては、既得権益に関して永続的に保護することそのものが目的ではなく、公益、均等性等の観点から俯瞰的にかつ継続的に調査、分析、評価した上で適格な既得権益を連続性をもって保護することが結果として永続的な保護として機能する形態である必要性があることだろうと思われる。
 およそ、許認可などの規制というものは、参入障壁として機能することよりは、どちらかといえば適正で効果的な社会活動が可能になるために設定されている、といった方向に機能することが求められるべきなんじゃないか、と思う。
 こういった意識は、規制する側に限らずされる側も同様で、たとえるなら、爆走し始めた車のハンドルが動かないようにハリガネでガチガチに固められている状態を自ら作るのかどうか、という話である。
 簡単に言えば、当事者が認知できていない自縄自縛を衆目に晒していないか?ということになろうか。
 あと、今でこそ様々な手法、組織(場合によっては法令)によってその多様性が増してきたと思うが、相互理解のお膳立てを継続的に行う施策が打てるかどうか、という点もあろうかと思う。
 それは、単にその瞬間の賛成・反対に対しての勝った負けたではなく、先のとおりその後も人なり組織なり企業なりが存在し続ける以上、双方の関係性は続くわけである。
 で、そのなかで例えば幸福というものの総量が時間方向に必ず一定でそのパイを分け合うものではなく、パイを広げ、またデメリットな部分を減ずることを作為的な方策として遂行できる可能性もある。
 当時としてはそれを行使できるのは行政しか無理だったように思うが、現在ではそれが複数ある場合もあるわけだし、それは単なる1組織、1企業内部のシステムにおいても同様だと思われる。
 また、このような関連性の動向を注視することで、システムやリソースの問題点を洗い出すことも可能であるし、その関連性から当事者同士のモラルハザードに関する歯止めになると思われる。(いわゆるイエスマンを集めた組織の暴走と逆の考え方。)
 加えて、第三者(例えば、企業においてであれば、経営者、従業員を除く外部のステークホルダ(必ずしも株主に限定されない))にとってみれば、具体的な問題点は把握できなくても、こういった接続性(コネクティビティ)が阻害されている(ここでは面倒なのでそれが機能的か器質的かは考えない)ことが、今後リスクを生み出す要因となるか、もしくは既にリスクを内包しているかが認知可能であるともいえる。



 あー、公害といえば、個人的に思うのは、スギ植林も公害だわなぁ、とか。
 今年、花粉症がひどかっただけに。
 未だに自然事案的な扱いに誘導されている気はするけど。
 あと、今、同様な事件が起こったとして廃棄物の全量無害化なんて方策が調停等を通じて打てるのか?という気はしなくはない。
 経済的な意味でも制御不能な漸次的オーバーフローを発生するようなリスクとして考慮すべきプロセスなりシステムなりは、できるかぎり意識的に避けなければ、リスクの受容において同じノーガード戦法でも相手のパンチがへなちょこだからOKなのか、ガードしてもどうせダウンするしかないからなのかという違いになって現れかねない気はする。