制約条件の多いヒントとか

 増田ネタ。
 「自分を売り込むことにおこがましさを感じる」ということで、ケースとしては、多分、昨今の就活における構造的精神汚染の一例な気はしなくはない。
 年寄りからすれば、この点についてだけは懐古主義ではなく「昔はよかった」と断言してもいいように思ったりする。
 ただ、それだと現実問題として何の解決にも提案、参考にさえなっていないので、とりあえず、経験的なところから少しそういう部分を書いてみる。

 で、考えるにあたって適用するための様々な制約条件があると思う。
 まず、コメにあるような内的問題を抱えている場合、経験則などという当人が置かれている状況とかけ離れている可能性を払拭できないようなヒント、手法を適用すると余計に問題を大きくし、現状をさらに悪化させかねない。
 基本的に、考える者(ここでは増田)が構築している感情的、心理的なシステムではなく論理的なシステムにおいて、考えていなかった手法やプロセスを付加することで変化することを自ら自覚をもって論理的にマネジメントできるという前提が必要かと思う。
 というのが、前提条件。
 次に、『「なんでこの程度で褒められるのか?馬鹿にしているのか?」と思ってしまう。/言わないだけで自分の目標点みたいなものはもっと上にあると信じている。』という事例から増田の属性を推定するとして、増田自身の評価指標がどうなのかは今は置いておくとして、その認知が存在する/した記憶が明瞭であるということは、ある案件に対して求められる要件を満たしていると同時に増田の能動的意志によってさらに高い水準に能力を引き上げる力が働いているわけで、その積み重ねの結果として、概して能力は相対的にかなり高い水準にある、としてみた。
 ちなみに、私のように「ほめられること」は何かを差し出すための対価であり、強意をもって「しかられること」はおよそ事物の良し悪しではなく、自らが目標を定め能動的に行動することを封じる思考停止の従順さの有無によってその強弱が設定されていたと過去を振り返ってしまえるところからして、そもそも何らかの案件に対して要求水準をかなりの場合満たしていないし、例え満たしていたとしても純粋にほめられるほどのレベルではないといった下層に属する者には適用は難しいかもしれない。
 先に「経験的なところ」と回りくどい表現であるのは、自身の経験則ではなく今までに見聞きしてその結果等も含めて良好な事案を抽出したということになろうかと思う。
 また、ヒントかもしれない考え方は、そもそも就活のような現場で半ば宗教儀式的に『自分を売り込むこと』のある種の嫌悪感について考察した際に取得した情報ではない、ということもある。
 以下の内容は、先のほめられることに伴う心理状態とそれに伴うメリット、デメリットについてのものであり、結果適用範囲は限定的であるとも考えられる。

 ということで、本題なのだが、増田は体育会系や部内の部員同士で結果によって固定的な条件、地位等の制約をうける競争が存在する組織に属していたことはあるだろうか。
 とはいえ、私は、生涯文化系の競争原理が部内の部員間ではほぼ働かない(ただ、単に人間関係といった別の要素に起因するものは除く)領域にいたので、実体験としてその状況を実感することは不可能ではあったが、論理的に理解し、実践することでもそれなりの実証的検証ができたのでそういう点では問題はないかもしれない。
 で、当の考え方を説明した者は、続けて以下のような投げかけをしてきた。
 ほめられることが自らの設定した基準を下回っているとして、その後の行動が1)本質的に求められるべき事項が乖離していることは無視してそのほめられたことを用いて地位向上などを図る、2)まだまだです、と現状に留まる、のどちらに自らが求める目的を達成するために寄与するメリットがあるのか?
 ここで重要かつ注意すべき点は、双方の選択肢のどちらかが常に優れているわけではないこと、対象とする案件に関して一方が優れているとしても将来的な不確定要素等を含むため結果が確定的ではないこと、自らの心理的な判断を翻すことによる心理的負荷も考慮してその優劣どおりの判断をしなくてもよいという、結果に対する挽回不可能な分水嶺に位置する選択ではないために「自らが求める目的を達成するために寄与するメリット」という条件がついていることにある。
 とりあえず、こういった条件があるとして、標準となる考え方は、1)によって自らが希求する目標を達成するための場、道具、環境、機会等がより多く与えられる可能性がある、というものである。
 具体例として出していたのは、グループ球技で個人としてほめられたことを素直に受け取り、それを継続的にアピールするなどで蓄積することでレギュラー等のより高い地位を確保することで、高度な練習ができたりといった能力の向上とその結果もたらされる本人が望み設定した能力の到達点に対して「ほめられる」ことを可能にするといったものであった。
 実際の世の中においてことはそう単純ではないが、これらの条件を加味してチェックシート的に○×なりそれなりに重み付けを行って「自らが求める目的を達成するために寄与するメリット」がどちらの判断に多く含まれるか、そして自身がそれを踏まえた上で取得しにいくかどうか、という二段階の評価手法を用いることが有効なのではないかと思う。

 この考え方は、増田のいう『現実は如何に売り込んだかで立場が変わっていく。/当然、人の目につくかどうかが需要に変わっていく』ことと、現象として扱っていることは同様に思えるが、大きな違いは考察する主体が個なのか組織(会社、社会等も同様かと)なのかというところだと思われる。
 例えば、個を商品、組織を消費者として置き換えた場合、マーケットインなのかプロダクトインなのかという問題に対してそのトレンドとは無関係にどちらかしか正しくないというわけではないので、双方向から考察した結果を行動に反映した方がよりよい結果を生むように思える。(人材を商材として扱うことに問題があるとする者も多いかも知れないが、あくまで好例が見つけられない無能者の例えということで勘弁してもらいたい)


 で、私もその心理的プロセスは増田と同一ではないとは思うが、自己アピールとか自己推薦とかが大嫌いだ。
 就活などにおいて最近では「棚卸し」といった手法が提示され、一部の大学では単位が認められる講座でそれを実践するなんてところもあったりすることからすると、求められていることは相当簡単なことではないということなのだろうと思われる。
 まぁ、そこまでやって生成される自己アピールを組織が審査していながら、それをもって現実に組織内で有効に個の能力を引き出しているとは思えない現場もかなり多いし、またかえって組織運営の足を引っ張っているんじゃないかと思えるようなこともなきにしもあらずな状況を鑑みると、正直、意味あんのか?という気もしなくはないが、それはそれ、ただのひがみではある。
 その昔、個人的な特性として結構口外していたのは、「後ろ向きに全力疾走がモットー」(モットーとか死語やね)とかだったが、私的な領域でもかなり引かれる(まぁ、あたりまえだけどな)わけで、当然、オフィシャルな就活などといった領域で使えるはずもない。
 とはいえ、ポジティブな属性ばかりを引き抜いて人材を集めても組織全体を見渡してクソばっかりでどうすんだこれ、なんて組織もごまんとある(よってその状況を商売にしている者も多い)わけで、正直、意味あんのか?という(ry。
 そういう意味では、ロクに考えない者にはもっと丁寧に考えろと声を掛けたいが、深く真剣に考える者には丁寧に考えるな、と言いたくはある。
 現実問題として就活等の当該行為における立場的弱者であるがゆえにそう簡単ではないのだが、折衷してもらえればと。
 個人的には、奴隷オークションじゃあるまいし、双方向評価があってしかるべきで、離職率だけではなく設定したゲート(就職にかかる選抜)とその後の変化に対するES的観点からの指標なんてのがあっていい気はするのだが、やろうとしても某圧力団体が握りつぶしそうだが。
 とりとめもなくなってきたので終わる。


 なんか最近毒の度合いが強いなぁ。
 暗黒面に落ち始めてるんだろうか。