「がんばる」との違い(勝手な)

 増田ネタ。
 数日前に「がんばる」について触れたのだが、よく似て非なる「頑張れは英語で“You can do it!”」とエントリが出ていたので個人的な感覚を書いてみる。

 で、まず増田の本論である命令的表現として「頑張れ」と「You can do it!」の元の語義、文法的な考え方とそれに伴うある程度含まれる/含まれるべき付帯的意味の違いとは別に、「頑張る」とはなんなのだろうか、ということを考えてみる。
 単純なことばの意味として設定されているものとして、例えばWeblio辞書を参照すると、

 1)あることをなしとげようと、困難に耐えて努力する。
 2)自分の意見を強く押し通す。我を張る。
 3)ある場所を占めて、動こうとしない。

とある。
 ここで、この1)〜3)の選択肢から「頑張れ」に最も近い用いられ方をする頻度が高いものといえば、多分1)だろうと思われる。
 とはいうものの、原義を考えると、Weblio辞書にもその語源が示されているように「我に張る」または「眼張る」といわれている。
 「眼張る」については、とある分野や個所にじっと注目し見逃さないことを示すもので、その意味は1)に転じたと考えてもいいとは思われるが、限定的な意味としての原義はほぼ残っていないように思われる。
 一方、「我に張る」は自ら、ここで言えば自らの考えや主張を固持することを指す。
 これは2)に該当すると思われる。
 また、辞書的な意味としてあまり触れられているようには思えないが、時間的な概念のうち、継続という領域があまり強調される向きはないように思われる。
 しかしながら、「頑張る」の抽象的な意味とは別に、「頑張れ」の用例としての含意として過去からの行動を含めるかどうかは別として、今後の行動を瞬間ではなくどちらかといえば継続、持続して○○しろ、という意図が見えるように思われる。
 多分、この考え方は、1)からさらに転じた概念だと思われる。
 古典とかだと「がんばっておく」といった表現もみられるのだが、利用頻度から補助動詞の「おく」が不要だとして落ち、「頑張る」に融合してしまったのかもしれない。

 あくまで、個人的な字面としてのイメージが「頑張る」を「頑」→「かたくな」→「固持する」、「張る」→「意志をもってその場に広がる」という形を連想するため、たとえ1)の用例が多かったとしても私の場合は2)の意味が混入してしまいそれに引きずられてしまう。
 その関係から、「頑張る」ではなく世間的意味と自身の認知の同質化のために「がんばる」と区別している向きが強い。(当然、文章自体に統一性がなかったりするのは誤変換とかもあるわけだが・・・)
 とはいえ、およそ、自らが自らの意思を表現するために「頑張る」もしくは「がんばる」として区別しようとした場合、1)と2)は共存していることも多い。
 必ずしも、2)といった譲れない領域さえも排除することのみが、1)を満たす手法であるとは必ずしもいえず、例えばビジネスの領域などのような利益相反する相手との案件において、2)をどのように設定するかは非常に大事なことであるともいえるからだ。
 例えば、結構ネタにしている某キャラの「がんばります」ネタは、アニメ版の行動体系から推測すれば、結果とは無関係に1)、2)の両方に該当するため、「頑張る」でも「がんばる」でも特に意味的な齟齬は発生しなかったりする。(私の脳内では、だが)
 しかしながら、AがBにBの意思と行動を求める場合は、ケースにもよるとは思うが、Aの言質において1)と2)は独立することが多いように感じる。
 というのも、AがBに2)を求めた場合に、AはBではないため、必ずしもBが1)を満たすとは限らず、また、2)で1)を満たせ、と命令するのであれば、Bの意思が介在しないと考えるべきか、もしくは単にAの考え方が身勝手で傲慢すぎるということになろうと思われるし、逆も同様だと思うからだ。
 ただ、現実には単純な感情の発露としてそういったところがクソミソになっていたり、ちまたでは「無責任な○○」などと揶揄されることも多い、相手を鼓舞したいとか応援したいという純粋な気持ちを陳腐に言語化したことがそれを実際の活動に置き換えた場合の問題点を熟考されていないようなものであったり、真意として思考停止を求めていたりといった極端に多様な意味として慣用的に用いられるし、場合によっては儀礼的表現としてその意味さえ落ちていることもある。
 「がんばる」とはどういうことかというのを先日難しいとしたのは、それを結果で判断するのか、時間的継続を考えた場合に期限の定めがなければ、当人の意思や計画や方法、各行動、進捗、中間成果などで判断されるわけだが、その複数のパラメータを総括して、もしくは何らかの重み付けをして判断する指標が統一されているわけでもないため、確定的ではないという話なのだが、さらにこれが命令形になるということは、先のAの「頑張る、がんばる」の認知、考察、構成、言語化と、AからBへの命令、それに対するB内での行動に至るまでの同様の逆接続されたプロセスが存在するわけで、一段と謎な表現になりかねないものだと思う。
 あと、先に補助動詞の「おく」が落ちたのでは、ということを書いたが、一般に「おく」は、無意志動詞には接続しないとされる。
 例えば、雨が降る、とか、崖から落ちる、とか、足がしびれる、とかがこれに該当する。
 ここで、むりやり「おく」を付加するとして、雨が降っておく、崖から落ちておく、足がしびれておくという表現を行うと、文法としては意味をなさないわけだが、第三者目線であるとか、神視点であるとか、創作物の設定やストーリーを考えている段に条件をあたえる思考プロセスの途中経過の1つとして捉えられなくはない。
 逆に「おく」を付加することで「頑張る」ことの具体的行動が無意志動詞か意思動詞かを文法的に排除するふるいの役割を果たしていたとしたならば、「おく」が落ちたことによって「頑張る」ことに無意志動詞の混入を許したことになるように思える。
 無意志動詞を含む行動を自らが自らに課すことは多くの場合良好な結果を得られない形を伴う「だけ」でその結果を踏まえてまた自らが立て直せばいいわけもあるのだが、他者から求められる場合は、先のケースでいえばAの考えをBに移転し、その行動主体がBである以上、AによるAの認知しない無意志動詞の混入がB自身の行動規範を汚染することにもつながりかねない。
 ここでは、文法的な部分に限ってみたが、このような双方の認知の齟齬が先のような「無責任なことを言うな」とか「じゃあ自分でやれ」などといった発言につながる場合もある(当然、ない場合もあるが)拡張の度合いが極端な表現なのだろうと感じる。

 で、英語の話になると共通一次で半分を取れないヤツが書くところではないのだろうが、日本語訳として「がんばれ」が適切なのかどうかは分からないとはいえ、例を考えてみると増田の提示する「You can do it!」のほかには「Just go for it」、「Keep it up」、「Don't give up」、「Hang in there」、「Give 'em heaven」とかを思いつくぐらい範囲は広いと思う。
 1つめはどちらかというと、「がんばれー(つべこべ言わすに今すぐさっさとやれやクソが)」、以降順に「(講義の最後とかで先生が)がんばれー(今日やったのを継続すればちゃんとできるようになるぞ、やらなかったら分かるよな)」、「がんばれー(あきらめるんじゃないぞ、まだチャンスは残ってるぞ)」、「がんばれー(どうにかしがみつけ=手を離したら死ぬぞ/後がないぞ)」、「がんばれー(いてもたれえ)」みたいなイメージを持っていたりするがそこはそれ、英語ができないのでどうかは知らんが。
 ここで、少なくとも「Just go for it」以外は、無理解な状態で「がんばれ」という相手の意思自体を一方的に規定してはいないように思う。
 ただ、同様に実例がどうなのかは知らないわけだけれども。
 そういった意味で、先の2)の含意をもって命令するといった、AがBにBが「obstinate」(無軌道な自分勝手さというものというよりは他者の意見に耳を貸さず、自らの考え方に偏執的であり、当該案件、対象に対して期間的な意味も含めて継続していること。当人の生来、もしくは根源的な特質とは別だが一事が万事でごっちゃにされることも多い気はする)たる領域にまで踏み込むことを許容してしまうような「がんばれ」という慣用的表現が英語にあるのかどうかアホなのでよく分からない。
 いずれにせよ、「You can do it!」なんてのは、文字どおりだと可能なのは何が根拠なんや、とか突っ込みたくなるが、ただの慣用表現なので文字どおりの意味ではなくもっと緩い表現なんだ、と勝手に理解してはいる。
 ただし、あくまで個人的な感覚として、相手が自身の行動規範に踏み込んでくるような意味が含んでいることは、先の講義の最後に教授されるようなことのような状況以外で極端に少ない経験の中ではなかったように思う。
 とはいえ、これが増田のいう『おもいやり』かどうかは未だに私は分からないのだが。(いや、まぁ、だって外人って厳しいんやもん。私が英語できんからかも知れんけどさ)




 コメのベンチプレスの話。
 学生時代にストリクトだろうがチーティングだろうが無関係にラックから持ち上げる(後ろに立って持ち上げようとしたという話。詳しくないのでどう表現していいのか分からない)ことすらできんかった文化部所属なので無理かな。
 多分、そういったシチュエーションであったなら、私に掛けられることばは「別の場所で別メニューから始めようか(嘆息)」ぐらいな気はする。
 ただ、いずれにせよ、目的はがんばることではなくて挑むハードルを越えることであるところが違いなのかなぁ、という気がする。

 『嘘つきの言葉なんですよ』の話。
 一応、あれは『I can't do it.』ではなくて『無理』だったらしいのだが、いずれにせよ構造は同じとは思う。
 『途中で止めてしまうから無理になるんですよ』と続けているとおり、結果を基点としてそれより前の行動や現象を一方的に規定していくという手法において原理主義的発想を行うと無理という判断がされたとしても無理であるという理由付けができないというだけの話であって、とある時間断面において自身の意思としての選択肢となり得るかどうかといった可能性に始まり論理的に行動が成立するかどうかという可能性、機能性、有効性、実現性などの領域で可能性は抽出されるものだと思う。
 要はcan=可能という意味の捉え方が乖離し過ぎているから『嘘つき』などという人格否定が起こってしまうところが問題なのだろうと思う。
 個人的には、自らの組織内に『嘘つき』がいっぱいいてそれを潰してまわらなければならない状態になった時点で、すでにビジネスモデルがどうのというよりも組織運営の形として末期だ(組織が回っている状態があらゆる意味で適正かどうかということには触れない)と思っていたので、その後の凋落はさもありなんとは思ったものである。
 結局、結果から逆算して現状の手段を封じてもそれが命令された者にとって道筋を示された結果を導く形態をなし得ないならば、命令した側が当初望んだ結果はもたらされない。
 そしてそれを命令した側が叱責したところで「がんばってはいるんですよ?(嘲笑)」と返されるのが関の山である。
 これはこれで、あまり適切ではない「がんばる」の用例ではあるが、そもそもその自体を招いた原因が、良好な結果をもたらさないであろうシステムで「がんばる」ことを求めたことにあると考えてもいいわけで、どっちもどっちということでいい気もする。
 いずれにせよ、無駄に範囲が広いために便利なことばであることに変わりはないとは思う。
 『I can't do it.』じゃなくて、I don't wanna do it! ぐらい言えばはっきりもするとは思うのだが、それだとクビ切られるかな・・・

 あとコメで多分私がFラン卒なアホやから分からんかったところ。
 命令形じゃないとすると、五段活用だから仮定形なんだろうか。
 「がんばれ」(ばいいんじゃないかな・・・いや、知らんけど)てのなら分からなくはないが、裏腹な発言を行う状況をもってそれを正意と定義するのもヘンな話だと思うので。