最近とはいつなのか

 某増田で、多分釣りっぽい記事なのでリンクはしないが、もし真性であればそれはそれで、うーん、っていいんだけどね。
 以前から一貫して書いているとおり、考え方は人それぞれであっていいだろうし、評価をせざるを得ない境界というのは、個人的にその行為自体が法令に反するかどうか、というレベルだったりするので、別に問題はないとは思うし。
 ただ、真性であってその立場が地方公務員のうち教育に従事する者(法の定義に従って書くと面倒なので大雑把に書いたが、意味するところとしては教育公務員)であるならば、地方公務員法32条(いわゆる服務規程の1つで『職員は、その職務を遂行するに当つて、法令、条例、地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。』という箇所)において疑義がある可能性もなくはないが。
 で、当然ながら、法に定められている「従ってね」という事項に関して批判したり異論を唱えることが「忠実に従っていない」ことを示すのではなく、『定める規定に従』うためにそれらを正しく理解し、かつ教育という職責を遂行するにあたって『絶えず研究と修養に努めなければならない』(教育公務員特例法第21条)とされる領域に含まれる継続的行為が適切に機能しているかどうかという部分であると思われるし、また、その職責を担うために資格が設けられているのは、遡れば、そういった認知が醸成されていることが期待されてのことではなかろうかと思う。
 とはいえ、もはや世間から聖職者とは程遠い人物が多く紛れ込んでいるなどと揶揄されることもある状況からすれば、あくまで奇麗ごとであって、入り口の段階を含めた適切なスクリーニングが機能しているわけではないのかもしれないので、前提が崩れかねなくはないのだが。

 で。
 あくまで発言者が教育公務員であるとしてだが、『文部科学省も「関心・意欲・態度」を評価せよ、学ぶ意欲をかき立てるような授業を、ということを言う。だがちょっと待って欲しい。本当に「そういう授業」を受けたら、学習意欲が高まり、学習効果は上がるのか?』という『?』が適切に自己解決(狭義として自己が受容し自己内でネガティブな意味ではなく適切に完結し解決されること)し受容できないのは、立場上、認知の手順がすでに誤っていると考えていいように思われる。
 そもそも、学校教育法第21条や、遡れば教育基本法第5条第2項の目的を達成するために教育者が行う行為、手法、手順が存在しているわけで、教育者である特定個人が行う具体的行為の局所的な有効性、有益性の高低によってそれを全体に拡張できる課題ではない。
 ビジネスの場面では、特に新規事業などにおいて1つの視点、着想、新たな手法などから行為が発生し、全体(社会、経済、市場、業界、分野など)に波及するという考え方もありはするが、教育公務員には一部の起業家のような発想は求められてはいない。
 先述のとおり周囲にも法令に定められる「目的」とは無関係、ともすれば反する行為が勤務時間内のほとんどを占める者も個人的に何人かは知ってはいるが、そこまで極端な事例に類似する状態ではないとしても、法に定められる職である以上、その行為にはひもづけることのできる意味があり、逆にその意味から具体的行為に下位展開(いわゆるブレイクダウン)された際に、具体的行為が目的を満たせないのでは?具体的行為が目標を見失ってしまうのでは?という疑念が生じた際には、これを遡って適切な意味、意義、いくつかある中の目的、目標のうち効力を有すべき対象を参照し、具体的行為が適切に効果を発揮するべく行動することが求められる。
 今回の事例でいえば、教育基本法第5条第2項の目的→学校教育法第21条の目標→学習評価の4観点(関心・意欲・態度、思考・判断・表現、技能、知識・理解の4つ。時期によっては少し違っていたこともある)のうち「関心・意欲・態度」という尺度(観点であって尺度ではないとされるが実質尺度である)→「そういう授業」という構図であって、その上位下位への展開と遡及を無視することはできない、と、何となくここまで書いていて初歩的過ぎてばかばかしくなってきた(うーん、数十年前に授業でやったなぁ、とか)が、とりあえず先に進む。
 ここで、3つの矢印において、1つめは、法令なのでどうこうしようもない部分である。
 2つめが実は結構怪しい領域で、構図としては、省令でもない通知というレベルの法令(当然、法令。あくまで効力の順位があるだけ)でそうなっているだけともいえ、外部から見れば、ある意味省内の胸先三寸ともいえる。
 個人的に胡散臭いとは思っているのだが、この2つめの矢印の間には、学校教育法第30条第2項というなぜか構造として小学校にしか適用されない条項である、学校教育法第21条の目標達成という第1項のために『前項の場合においては、生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない。』から抽出した項目が評価の4観点であるとされる。
 とはいえ、「関心・意欲・態度」という表現および考え方は、結構昔から出ていたもので、『こういう世の中の風潮を受けてか』って時期的な話か?と思って記憶を頼りに時期を指定してググってみていたら、どうも正式に用いられ始めたのは、文科省の通知である「13文科初第193号」あたりっぽい。(ただし、この通知では高等学校についてだけである)
 で、そもそもなぜ2000年近辺をピンポイントで狙うかというと、それまでそれなりにあったとしても、通知という形態であろうと法令として効力を持つ公文書として明記されるとすれば、今では方針転換されたいわゆる「ゆとり」の始まりでのことであろうし、本質的な意味での「ゆとり」で重要視されるはずではあったが、現在では結果的に表面的な認知による浅慮という表現、いわばお題目になってしまったと思われるものだったという記憶による。
 実のところ、学校教育法が2007年に改正され学校教育法第30条第2項が新設されるまで宙ぶらりんだったことを考えると、胡散臭いというか、追認っぽいというか。
 さらに、その宙ぶらりんが解消されたのが「脱ゆとり」を目指して教育三法が改正された時というのもまた皮肉なものだとは思うが、それに口を挟める立場にはない。(極論すれば、悪法もまた法ではあるので)
 いずれにせよ、最近っていつだよ、もう15年以上も前ってことか、と感じて気が滅入る。
 とりあえず、自分がたりは済んだので、氏のその後の論法については触れない。
 それが正しいか正しくないかは関係なく、いわゆる一杯飲み屋で上司の激情だけではない理屈をこねた愚痴を聞かされるのはそれなりに考えさせられることも多かったので同様かと思うし。(これまでになく過激な上から目線的表現だが)
 ただ、今回の件については、課題自体が何となく物悲しくはあるのだが。