技術な技術と技術じゃない技術

 特にリンクは貼らないけどもとある記事を読んでいて思ったことを少しだけ。
 当然ながら私なんかが批判できるわけでも何でもないわけだけども、近ごろの技術立国っぽい象徴であるような企業の不正があると、決まって猫も杓子も技術、技術と言いたくなっているように思えたりする。
 ただ、特にそれ自体が悪いわけでもなく、本質的には社会的な問題意識の醸成という点でも、またその技術を自ら行使するわけではなくとも、その恩恵に浴さない者は極端に少ないがゆえに、いかなる属性の者においても各個に問題意識があってしかるべきと思われるし、さらに、それらの考え方同士の相乗効果によって新たな知見や手法などに至るのが正しい形ではないのかなぁ、と思う。
 とはいえ、流行りものに飛びつくかのごとくに認知はあれども、不十分な知識(それは、私から見た相対的なものであって、少なくとも私自身は絶対的見て限りなく下方にあるわけだが)から断定的に定義し、体系化し、ある程度の圧をもって流布してしまったりすると、そのシステムというのは果たして有益なんだろうか?とか思えてしまう。
 確かに、すべてが効果的であるために効率化されるわけではないのが世の常なわけだけども。

 で、技術ってのは何だろう?っていう。
 最近というか、少し前かは分からない程度の昔だけども、理系の大学に入ると「技術とはなんだろう?」「テクノロジーってなんだろう?」というようなことを考えさせられるらしい。
 私はFランなのでそんなことをやった記憶がないのだが、なにしろ、こういったものの多くは定義を広げれば広げるほど、本当にそれって該当してんの?という形態になっていくし、逆に絞り込めば絞り込むほど矛盾が発生するように思える。
 ただ、自らが文章や図に書くなりKJなんかで意見を出し合うとそういった矛盾や差異というのがうっすら見えてくるもので、逆にそれまでの義務教育なりで体に練りこまれた成分がそれなりに多いために自らに存するそれっぽい体系化されたそれが、部分的に適合性を欠く可能性がある箇所に気付かないことも多いと思う。
 とはいえ、技術とはなんぞや論を歴史的にどうのとかやる気などさらさらなく(というかそんな知識も教養もない)、とりあえず、技術なんて単語は明治に英語の訳から作られたことばなんで、テクノロジー側にその概念を求めてみるかなぁ、ぐらいな話でいいかもしれない。(そもそもtechnologyを技術と訳したわけではないんだけど、まぁ、いいや、ということで)
 じゃあ、海外でのtechnologyの概念の変遷を紐解くのかというとそれもめんどいのでパスするとして、個人的に考えているのは、技術というのは、いわゆる辞書的な意味での、知見から対象に働きかけることで働きかける側(今のところ主にヒト)が利用し益を得るわざ、もしくはそれよりも広い意味でわざが秀でている、巧みである状態を示すということを基点にして、technologyを認知するには、その内容から符合するように適正な範囲を設定しなおさなければならないんじゃないだろうか、というように思える。
 例えば、昨今の技術的先進性の剥落という点から経済産業省などで「まねじめんとおぶてくのろじー」なんてのが取り上げられていたりするが、よくも訳しにくい単語を2つも並べやがってとか思っても、日本語訳は技術経営だったりする。
 特にMOTについて書く気もないので放置するけども、少なくとも先述の辞書的意味だけでは適切に理解できないようには思う。
 結局のところ、とある事象に対して考察する段において技術ではない技術とか技術とされる技術ではないなにかという謎なものを扱うのは結構骨が折れるはずだろうけども、考察しとある結論が導くことが可能な齟齬であれば問題はないだろうし、そうでなければ、根元まで遡らなければならないのではないかと思う。

 で、読んだ記事の話なのだが、この記事での考え方というのは、テクノロジーから生み出していくものはリアリティがない、未来はニーズから生まれる、みたいなもの。
 例としてドラえもんの道具はテクノロジーを基点にしているからリアリティがないでしょ?というのだけども。
 テクノロジーとニーズが相反する事象のように語っているのは「???」とかなってしまったという。
 テクノロジーとニーズが常に相反するとした場合、当該記事の著者にとってドラえもんの道具はニーズがないだけで、ニーズがある者にとっては、そのニーズに見合うリアリティがあることになってしまうので、結局、具体的な製品やサービスに落とし込んでいくと、人によって変わるね、よく分からんね、というだけの話になってしまいかねない。
 とはいえ、ニーズに対してテクノロジーをその上にニーズをといった重畳的な形態がテクノロジーブラックボックス化とニーズの分散によって非常に分かりにくくなった昨今において、その連続性を無視したくなるのも分からなくもないけども。
 ただ、テクノロジーという概念が非常にゆるい存在であったとしても、その考え方が適切かつ有益な技術足りえない(適切な適用範囲や用法が設定されていない状態も含む)のはどうなかぁ、とか思ってしまった。
 結局、これは技術です、そっちは技術ではないです、と他者と意見の分かれる独自の前提の上で議論を積み上げても思った以上に生産的ではない(力関係で生産されてしまう場合も多いわけだが)と思われるのだが、先述のとおり根元まで遡ろうとも、社会的成功という点で、自らの考え方を変えてまで温度差を取り除いて議論の席に再度座るような動機が生まれにくい社会構造を成しているのかなぁ、という気がしてきたという話。
 別にそれがいいか悪いかということを考えたり判断したりしようとは思わないけども。