なぜ訊かれなければならない?

 某団体の加盟企業の選考開始はまだ数日先ではあるが、既に内定率が25%程度(一応ソース)であることを考えると扱おうとするネタは明らかに時期を逸していて、就活をがんばっている人にとってみれば「けんか売ってんのか」と吐き捨てられかねない内容なため、注意してもらった方がいいかもしれない。

 と、前置きした上で、ネタにするのは、過去に聞かれてどう答えていいものか分からなかった案件になる。
 それは、「あなたの学生時代にがんばったことは何ですか?」となぜ訊かれなければならないか?である。
 この手の質問というのは学校や職場などの自らの所属に変更が生じる際に訊かれることが多いと思う。
 また、そのような質問を行う理由として、およそ面接やESなどの攻略本などでは、課題に取り組む姿勢や課題達成のための遂行能力(計画性や工程管理や場合によっては協業などの能力)および問題や困難な事象に対する捉え方や解決のための提案力などを自社に生かせることができるかを見るためというようなことが書かれているのではないかと思う。(攻略本のようなスマートな表現でないとは思うが。)
 ただ、ふと疑問に思ったのは、質問者は、自らが欲する情報を取得することがその一連のプロセスで可能ではあるが、はたして必ずその一連のプロセスでなければならないのか、同等なプロセスであったとしても必ずその質問でなければならない理由を説明しろと言われても簡単に答えられないように感じたことにある。
 まぁ、いい大人からすれば、最も効率的だからだよと言われそうだが、一個人の人となりを明確化するための質問という無数の選択肢から自らが選別し最も効率的な項目として確立したものでもないのでは、という、ある意味前例主義を全否定しかねないことまで考えが及んだりしかけることにもなりかねないとはいえ、何となく腑に落ちないという感覚である。
 先に答えっぽいものを書いてしまうのも順番としてむちゃくちゃなわけだが、とみに就活の段においては、国内では「ポテンシャル採用」だから、と表現されることがある、というところがあろうかと思う。
 「ポテンシャル採用」ということばは、かなり昔でいうと、いわゆる年功序列でゼネラリストを育成する規定ルートが設定されているような職場において景気悪化や採用抑制やグローバル化などに伴う局所的な人材不足の顕在化や社内での人材の流動化などに対応するために、決められたレールで活動できる能力のみを評価するのではなく、対応力や意欲というポテンシャルを買って採用を行う手法であったと思う。
 しかし、昨今の「ポテンシャル採用」というのは、社内の流動性が高まりすぎて本来その会社においてコアとなる能力はその有無に関わらず置いておいて、先の対応力や意欲というポテンシャルだけを買って採用することを揶揄するために用いられている節がある。
 とあるベンチャー系企業の社長がウチの会社のコアとなる能力は対応力と意欲や、と豪語しているのを聞くと、何というか、廻りまわって来るところまできたのかな、という気がしてくる。
 もういっそのこと労働契約書の業務内容に「対応力と意欲を発揮する」って書けよって毒づきたくもなってくる。
 高度成長期周辺あたりの昔とかまで遡ると、当時の入社面接について聞いた感じでは、単純に夢を語らさせたり、○千万で何かプロジェクトを立ち上げろと言われたらどんなことをしてみたいか訊かれたりしたそうである。
 だからといって当然ながら入社してそういったことが実現できるわけでもないが、それを雌伏の時として認識し容認できる程度の社会情勢であったのであろうし、企業側も就活生がそのように考えているという認識のもとに質問を組み立てていたのだろうと推測する。
 しかしながら、昨今では企業はそのような柔軟性を業務や活動そのものから取り除き、人材にだけ柔軟性を求める関係上、明らかに実現できないことをしゃべらせることができにくい環境にあるのではないかと考えることも可能かと思う。
 こういった訊きにくさから考えられた手法が自社にとって当り障りのない「過去を訊く」という手法であり、その具体的な内容が「がんばったこと」とか「取り組んだこと」という設問になったとも考えられる。
 とはいえ、マニュアル化や完全分業化、複雑化が進んだ現在として、はたして攻略本を読んで就活対策として訓練を積んだ対応力や意欲(もしくは創作による脳内対応力や脳内意欲)がどの程度会社に寄与しているのだろうという気はする。
 実際には、様々な質問のキャッチボールなりESや面接だけではない様々なコミュニケーション手段を用いて輻輳的に集計されその道のプロが評価しているわけで、単一の質問項目から話を広げることには問題はあるとは思う。
 しかしながら、昨今の対応力や意欲の欠如によるものか、当事者たちの対応力や意欲を発揮できない硬直性によるものかは分からないが、それを匂わせる、もしくは要因の一つと考えてもよいのではないかと思われる企業や団体の不祥事が目に付くことを考えると、がんばったことを訊かれるという疑問は、めぐりめぐって、訊くのはいいが、がんばったことのそのプロセスや思考形態なども含めたすべてもしくは一部が有効に「生かされる」企業なのかという感覚が芽生え始めているのではないか、と感じる。
 現時点では、ESや面接で落とされれば、生かせない企業で内定が出れば生かせるんだよ、と言われそうではあるが、面接で夢のようなものを訊きにくくなった変化と同様な端緒なのではないのかなぁ、という気がした。