考えたくないです

 増田ネタ。
 「自分で考えろは新人に使ってはいけないと思う」ということで、内容も「そうじゃなくてちゃんと解答を教えろ」という話である。
 で、コメをみると同意か反対か、それとは別に「自分で考えろ」と指示する行為におけるおよそ本質ではない背後に存在する目的の不純さ、不適切性、生産性や効率の悪さを指摘するものが多いように感じる。
 個人的には、児童教育などにおいて盛んに議論されつつも一向にそういった方向にならないと、ある意味バカにされている手法である「自ら考えて適切な解答の1つにたどり着くこと」と「さまざまな解答を保有し行動しそれを維持すること」は分離して考えるべきではあるが、その2つは両輪であって一方だけでは適切に機能しない、もしくは効果的であるとはいえない(相対的に、という意味で)という立場だったりはする。
 とはいえ、あくまで考え方であって多くの場合実践が伴わない関係上、実質的に机上の空論に過ぎないとは思うが。
 言い訳がましいが、過去に新人教育のバックヤード(要は直接指導するような高位の立場ではない)にいたことがある関係上、やらないとしょうがないわけで、無理やりにでもそれっぽい成果を出すためにやろうとしていた、というだけの話で、ある意味立場的には増田よりも下っ端ということにはなろうかと思うため、適切に検証されているともいいがたいわけではあるが。
 で、当時『中には自分で考えて正しい答えを出せるやつもいるが、それは指導方法が良かったのではなく、もともと優秀なだけだ。』というまんまそのとおりの話が新人教育の担当者側から出たのだが、そのときに労務担当の役員がいったのは、「優秀だからと同意して採用したのだから優秀たらしめろ、おまえら優秀なんちゃうんか」だった。
 捉え方によっては経営層の無責任な発言としてすっ飛ばすことも可能ではあるのだが、ここでは、規定される優秀というあるべき姿と新人の資質において乖離が存在するなら、何らかの形でそれを埋めろ、その方法は自身の特質(=優秀)からあるべき姿を設定し経験などを加味しながらそれらをもとに自ら計画し課題を達成しろ、ということだったらしい。
 要は、七面倒臭く考えなくとも「どうにかしろ」と言われても解決の糸口になる前段の基礎も基準も見えなければ、とるべき行動の選択肢を想定することも困難なわけで、それを適切に処理し、適切な解答の1つを導き、実行できる当人の条件がそれなりに揃っていなければ、限りなく非効率的か、もしくは当人自身がスポイルされる結果となるのだろうと思われる。
 また、各人が導いた手法を適用した結果が同様に良好であったとしても、その手法がいかように振れていても問題ない、ということにもなる。
 このことは教育者側の考え方、という部分ではあるが、被教育者側の新人においても限定的に捉えるかどうかは分野によるとはいえ、当人の資質を用いて何かを為す際に突如としてその時点(ここでは入社時)からボウフラの如くわいたわけではなく、それまでの蓄積によって構成されているわけで、同様な扱いになるのではないか、というのが自身の中で両方必要という考え方につながっていると考えるところである。

 他方、自ら考えて適切な解の1つを導く行為が求められる状態ではない場面で「自分で考えろ」という場合については、個人的には、原則リソースを空費しているだけだと考えている。
 一応、「原則」というだけに例外はなくはないのだが。
 例えば、『作業手順を教えるのでもあえて簡略化して教えたり、/結果が間違っていた場合もどこが悪かったのかをすぐに教えず、考えてみろと放置してしまうパターンが横行している。/しかし、これをやったところで考える力などつかない。』という事例から考えてみると、考える力が付くか付かないかという以前の問題として、手順書やマニュアルの意義の1つを履き違えているというところがあろうかとは思う。
 手順書やマニュアルの意義は、様々な側面から多様に定義できると思うが、様々な試行錯誤とよりよい成果への追求などの諸活動から抽出し、再生可能な形式に再構築したものであって、その再生に至るまでに要した諸活動を省くことで効率化を図るのもその1側面である。
 有り体に言えば、手順書やマニュアルをマスクした状態で従わせないように導いたところで、それは手順書やマニュアルによって企業に益をなしている領域を毀損してまで教育の側面を強調しなければならないのか?という部分に関して個人的には否定したいところである、ということになる。
 その昔、「新人にマニュアルを見せずにものを作らせてるんです。ほら、OJTって大事じゃないですか。」などという話を振られて、かなり困惑したことがある。
 何も情報を与えずに勝手に仕事をさせることがOJTではないのだが、中小企業だとそんなレベルのところは多いように感じる。
 また、はてな界隈ではクソ扱いのOJTだが、現場レベルでもクソ扱いする年齢が上がってきていると感じる。
 とはいえ、その認知が先のようなものだったりすることもしばしばだったりもする。
 さらに、OJTをやらないのはいいとして、作業内容の全体像や背景を理解するのに効率的でないというOJTのデメリットの1つと同様なデメリットをもつ、というかもたせる手順書やマニュアルを与えないなどの体系的理解を阻害する、もしくは遅延させる行為は、やってることがいっしょじゃないかな、と思ったりする。
 ここまでは『なぜか自分で考えろを使ってしまう人』において当人の意思でもって行っている場合で、これとは別に自らの意思、というか成り行きでそうなってしまうパターンもある。
 その1つとして、手順書やマニュアルを整備することに伴うデメリットの1つとして挙げられる先の効率化して省略した部分に存する背景や思想的なものが失われることに起因するものが挙げられると思う。
 こういった部分は、整備した手順書やマニュアルの定着や教育とかの領域で考慮されることが多く、大きな問題に発展する可能性が高い手順の逸脱や裏マニュアルの構築といったモラルハザードの問題も含む。
 とはいえ、卑近な例としては、教育者自身が手順書どおりに作業できない、手順書やマニュアルに明文化されているにもかかわらず口述がおぼつかない、説明できない、作業や行為における重要な箇所、気を付ける要点が示せない、また示せたとしてもなぜ重要かについては答えられないなどという現象として現れるようである。
 『なぜか自分で考えろを使ってしまう人』はコメにもあるが、提供したくないから情報を出さないという以外にも提供できないから情報を出せないという実情からそれらを相手に転嫁してしまうことも多い。
 『なぜか自分で考えろを使ってしまう人』たるゆえんは思いつくのはこんなところだろうか。

 『結果として成長を鈍化させているという残念なパターンが大半だ。』というわけで、じゃあ、残りの半分未満はいったいどういう状態なの?という部分についてそのさらに何パーセントかの直接的に成長に寄与していると思われる事例を2つ書いてみる。(ここでは大半を半分以上という意味として捉えた。十中八九という意味なら読み替えよろです)
 まず、経営者やオーナーが「鉄も人も叩けば強くなる」などと豪語するような領域においては、過酷な環境下で成果をあげた者のみがその当人のことばに合致する、悪い見方をするとむちゃぶりされて成果が出なければはじき出されるプロセスの一環として機能しているため、そういった人材のマネジメントが事業の拡大や収益に大きく寄与している場合は成長の源泉を構成する有益な手法の1つであるといえなくはない。
 ちなみに、それでいいのかどうかについては触れない。(以下同じ)
 2つめは、最近の就職のあり方が会社側、労働者側双方で高度化した関係上、減ったらしい(今はそういう現場にいないのでよく知らない)のだが、雇い入れてからある程度のかせを架したうえで「自分で考えろ」という試薬を垂らすと増田のいう『もともと優秀』かどうかが判明するという診断薬がわりに用いられたりすることもあった。
 実際のところ、雇用契約や労働契約について軽々しく捉えている経営者などにおいて、非常に定着率が悪く採用コストが高くなりがちな企業の話を聞くと、採用コストが本質的には雇用後に教育コストであるべき部分さえ採用、選別コストだというごたまぜな意識が存在していることも結構見かけることがあった。
 こういった会社は労働者/就職活動者側からすれば雇用契約を取り交わすより先に選別されて別の就職先に向かえるようにしてくれという形な気はするのだが、あまりそういう声はそういった経営者には届かないのだろうと思う。
 逆に、経営者にとってみれば、契約というかせを架したうえで根性試しをさせるようでないとさすがにまずいと思っているようになったためか、事後のスクリーニングとしてのみ用いているのかもしれない。
 また、そのスクリーニングは経営者にとって都合のいい特質(例えば気合いと根性で何とかしろと言われれば何の疑問もなく何とかしようとするとか)を抽出する手法であるため、結果、企業にとって有益である、と判断してしまうことになろうと思う。
 成長、という観点から考えれば、適切な統治よりもオーナー社長によるマスタスレーブ方式で運用した方が利益を生みやすい領域も当然存在するわけで、そういった場面では有効に機能すると思われる。
 ある意味、「考えろ。考えるな。」の発想を都合でいかに極小化と極大化とのアンバランスさのまま維持させるかともいえるわけで、結果としては自ら勝手にメンテナンスできる歯車、というところが最終形態だと言えるし、およそこういったシステムの中小企業とかは、その制御が半ユニラテラルに構成されていて、現象の一部を使い古されたことばで表現すると、経営者によるいいとこ取りとか責任転嫁とかトカゲの尻尾切りなどというものを体感することにはなるのだが、とりあえず、何がしかは成長している、といっていい状態は存在すると思う。(少なくとも労働者の人間性とかは成長しないとは思うが)
 いずれにせよ、現在の社会環境においては、成長は数値的には見て取れるが、いびつなものではある、といえるかと思う。




 コメの臨機応変について。
 コメ主は『わからないことがすぐ聞けない環境』という条件下で発生するとしているのだが、個人的には、発言者側が質問に答える意思がある、もしくはその回答を明確に保有し提示することができるが物理的にコミュニケーションを取ることができないもしくは困難である(変なたとえだが、殿と斥候の関係とか)場合と、質問に答える意思がなく、また回答も明確に保有していないためにコミュニケーションが論理的に成立しない場合とに分ける必要はあろうかと思う。
 ただ、『定義はなんだ。』とコメ主が表現するように、コメ主は主に後者を指しているように思われる。
 とりあえず、この場合分けを事象Aとする。
 また、時間軸上において臨機応変が用いられるタスクがイベントを基点として前か後かという場合分けも必要かと思う。(以下事象Bとする。)
 ただ、これも『すぐ聞けない環境』、『対応が気に入らなかった場合あとからいくらでも叱れる』という表現から後者を指しているように思われる。
 で、このA、Bの組み合わせを、

 \A | あり | なし
 B\ +−−−−+−−−−
   前 | (1)  | (3)
 −−−+−−−−+−−−−
   後 | (2)  | (4)

として考えるとする。
 まず、(1)だが、少なくとも自らの行動の準備を行うプロセスが必要になる。
 そして直伝として伝授されていないだけで回答は存在するわけだし、訊けばどうにかなるということになる。
 ただ、発言者がウザがらないレベルでの質問に留めなければならないのは、発言者のタスク数から鑑みて初歩的な組織論として理解可能なものであろうと思うし、それゆえ最小限で最大の効果をもたらす質問である必要はあろうかと思われる。
 ちなみに、このようなことは小学生レベルの社会性から導かれる手法であるため、取り立てて解説する必要もないかと思われる。
 あと、発言者にもよるとは思われるが、受け手側の行動の制約を緩めていることから、より当人が意欲をもって行動し、もってより多くの果実を得ることが可能であると考えた上でいい意味で裏切られることを期待していることも少なくない。
 とはいえ、たとえイベントより前の準備期間が十分に存在したとしても、そういった期待に対しての発言として『言われると本当にポンコツになってしまう』のであるならば、発言者において制約条件を取り去ることでより高い能力を発揮するのか、より多くの制約条件下で高い能力を発揮するのかという受け手側の特質の判断が適切にできていないという点において見る目がない、ということにもなろうかと思う。
 次、(2)。
 主に結果責任に対して用いていることが多いように経験上感じる。
 およそ、熟語の原義が「機に臨み変に応ず」というだけの話で、結果から原因をさかのぼれば、変に応じることが適わなかったために故意や過失がなくとも適切な結果が得られなかった原因だとして考えることも可能である、ということにはなる。
 とりあえず、法的にとか倫理的な意味で結果責任が現在の責任主義に相容れないという話は別として、それ自体を深く考え込むあまり、自身の行動の制約につながるというのであれば、ある意味「失敗しちゃった、ごめん、テヘペロ」レベルな理解として受け取っても構わないような場合も含むようなものとして理解した方がかえって良好な結果を生む可能性も高いかもしれない。(これは、考え込む人は考えるなといっても考えるからで、考え込まない人がこれを適用した場合はよりいっそう悪化する。)
 また、適切に変に応じる回答を発言者が持ち合わせており、開示する意思があることから、どちらかといえばそれを披露したいという動機も存在するとして、うまくいけばその場で回答を引き出すことができる大きなチャンスだと捉えることもできる。
 ただ、ここで注意しなければならないのは、意識的に「回答」と表現してきたように、「回答」に含有する「解答」が適正かどうか、という場合分けも必要ではある。
 一般的に何らかの執行プロセスにおいて規定される事項や適正であるとされる範囲と変に応じるための「解答」が乖離しているかどうかで判断することが可能であるとは思えるが、受け手側が「回答」を引き出した際にそれを何らかの形で検証し、乖離し適正でないと判断でき、それが継続するようであれば、めでたくモラルハザード待ったなしな状況でるとも考えられる。
 とはいえ、それだけではあくまで倫理的な指標におけるネガティブな案件というだけであって、残念ながら法令に反しその裁きを受けるに至るにはまだかなりの幅があり、そういった領域に身を置くことに対する対処法の選択肢と精神力を求められる実行力をそれなりに持ち合わせていなければ、『恐怖しかない』ことに変わりはないわけではあるが。
 ここに振り分けていいのかどうか悩ましいが、『「私の理想の対応が何かを正確に理解して行動してほしい。出来ない場合は許さない」って言ってるのと大して変わらない』、『あなたと私の考えの違いを明らかにしてどうすべきか一緒に検討してくれたらお互いが楽だと思う。』といった考察がなされるところから遡って、実行責任(手順化がある程度進んだ領域におけるresponsibilityに近い概念)に対して発言される場合、コメ主の感じるとおり、「三文エセ評論家気取りなら後付けでなんとでも言えるよな、クソが」と思っても不思議ではない。
 ただ、その際に発言者に用意されている「回答」は、たとえあったとしても失敗にひもづくものでしかないことが多く、成功にひもづくものは準備されていないことが多い。
 若い頃は、そこをついて相手を潰しにかかったりと大人気ないこともやっていたこともあったが、基本的に生産的な方法は、結果さえ伴えば発言されない、ということに尽きるように思う。
 結果を伴った状態に対してなんらかの利益を損なう行動をとる属性が発言者にあるのであれば、多分、別の組織に移った方が自身のためになるようには思う。
 また、このような極端な事例ではない場合、受け手側の説明責任を果たすことなどの相互理解を促進する様々な手段を用いることで問題克服や課題対応に関してのコミュニケーションが円滑になることもあるのだが、こういった話は際限がなく、本論とはズレるため省略する。(多分メートル単位で本屋にありそうなので。)
 (3)。
 これは、臨機応変であること自体に「自分で考えろ」が乗っかっているパターンなことが多い。
 コメで定義されている『つまり一応はわからないことが聞ける環境』であったとしてもなかったとしても少なからず中身のある「回答」は存在せず、間違っているのか有効か等を判断する以前の段階と言える。
 結局のところ、(1)に必須な「自らの行動の準備を行うプロセス」にほとんどよりどころにならないレベルの情報しかない状態から方針を決め、計画し、行動に落とし込んでシュミレーションし、計画へのフィードバックを何度か繰り返すサブプロセスが一方的に受け手側にのしかかってくるだけの話ともいえる。
 ここで発言者が受け手側の行動に関して全く経験も知識も興味もない場合を除き(最近では上辺だけでも知ることが可能になっているのでほぼなくなっていると考えていいとは思うが)、「回答」にまで言語化が行われていなくても、受け手側の行動を直接見て発言者の経験や知識とをなぞることでその差異を認知することだけはできることが多い。
 臨機応変の発言の後に、この差異を表現することで受け手側は『臨機応変についての定義がなされてない場合、対応が気に入らなかった場合あとからいくらでも叱れる』という認知をすると思われるが、定義ができないから臨機応変と指示しているわけで、定義をどうするか、ということによって根本的な解決の糸口には基本的にならないし、多分、別の行動に対して同様の問題が発生することを食い止めることはできないのではないかと思われる。
 こういったところは、KMとかの領域になると思われ、暗黙知の共同化(ソーシャライズ)で考察されることも多いが、個人的には、こういった点においては、暗黙知が適切に継承できるプロセスとして機能していない気がするので、暗黙知の漸次的矮小化だと思ってたりする。
 また、当然ながらKMによって下っ端がどうにかできるようになるわけでも原則ない。
 実際のところ下っ端にとって(3)をよりよい形に変えていくなんてことは相当難しく、そのため多くの組織も(3)のままで踏みとどまっていることも多いと感じる。
 ちなみに、OJTということばの間違えた使い方をしてしまうのもこの領域に多く、形式知だろうが暗黙知だろうがないまぜにして教育者が教育という形で知を移転させるのではなく何かよく分からないOJTという魔物にぶん投げている(または投げたつもりでいる)ことを自慢げに話すことも見かける。
 とはいえ、これが機能したのは「J」、つまり仕事、需要が多かったから数を撃てば間違えた考え方でも最終的には矯正されてどうにかなったというだけであって、需要が低迷し、技術の断絶の問題が叫ばれて久しく、若年人口が減るなか、当然ながら競争に勝つために(2)や(1)に移行していく企業も多い。
 いずれにせよ、(3)の領域がが不得意な場合は、(2)や(1)の状態の組織を目指す、という考え方も選択肢として大切にしなければいけないかもしれない。
 (4)。
 ある意味、どうしようもない。
 (3)もブラックと呼ばれる属性を持つとは思われるが、(4)はまずもって漆黒だろう。
 ただ、こういった組織で頭角を現す者もいないわけではない。
 こういう場合、外部からはおよそ結果が素晴らしいことだけしか見えず、それ以外の部分の良好な結果をもたらす論理的なつながりは見えないことが多い。
 このような組織構造をもつなかで臨機応変が表現されたとしても、発言者の思考自体が無政府、無法状態で受け手側も同様であるため、そもそも推定することすら無理があることによる。
 さらには、ただただ結果だけが評価される関係上、(2)で考えられるモラルハザードというよりもコンプライアンスを越えた単なる違法行為の常態化も視野に入れた状況を容認しかねないところまで転落しやすい構造となっていると思われる。(ビジネスモデル自体が何がしかの違法行為を含まなければ成立し得ないものもここに入ると思われる。)
 データ改竄で「こういうデータが出てくると困るんだよ、臨機応変に頼むよ」と言われて「問題があるデータ舐めときました」というやり取りが可能になる(というかそれぐらいしか解決方法がない)のも(4)の領域に当てはめてよいかと思う。
 さすがに(4)から他に遷移した組織ってのは私は見たことがないのだが(今でいうホワイト企業の創業者が発祥は闇市でして云々という話レベルまで遡ればなくはないが)、少なくとも(2)からは急激な社員の入れ替えなどで知識や技術、もしくは社内の風通しなどと呼ばれるコミュニケーションの停滞により(4)に移行したり、(3)からは、マニュアル化、手順化などの知の蓄積やプロセスを適正化するためのガバナンスやコンプライアンスの強化を適切に適用できなかった場合、組織に所属する者(企業であれば、経営層、社員等すべてを含む)が悪適応した結果、(4)に移行することもある。
 臨機応変であることを希求する層ではないならば、原則として(4)には属さないことを第一義とすることが大切だと思う。
 で、なぜ、臨機応変だけ4分割して考えて、「自分で考えろ」について4分割で考えないのかというと、何をどう考えるのか、考えるとは何なのかを分類する必要があるのでこういった平面構造で考察できないことによる。
 多分、こういったところも様々な研究はされているとは思うが、下っ端としてはダメだったら原則的にダメと考えて次善の策を練る方が建設的なので、そういう方向の方がいいように思う。
 ぶっちゃけ、臨機応変にとか杓子定規にやるなとかいうのは、意識高い系的な意味としてのまだ見ぬ浮世離れしたブルーオーシャンといった領域で始めていいやがれ、と思う方なので、そうじゃない人には別の理論があるかもしれないが。




 あ、あと全然話が違うけど、コメで1つ茶を噴いてしまったのがあった。(どれとは書かないけど)
 脊髄反射っぽいものに見せかけて、短文の中にとてつもない爆弾を内包させるというのは私には無理だ・・・
 学もセンスもなさすぎらぁね。