何が製品か

 なぜか日経の神鋼の記事のほとんどが有料記事なのはなぜなんだぜ?とか思いつつ、「神鋼不正、数十年前から アルミ・銅の合格証改ざん (10/17 日本経済新聞)」についてなのだが、なんというかすごいのをぶっこんできたなぁ、という。
 あまり事実の断片を記事の1つ1つでどうこうする気はあまりないのだが、ちょっとことば足らず過ぎない?という感覚があった(前回取り上げた記事とかも同じ)ので少し書いてみる。

 というか、ぶっちゃけ「こうなんですよ」という形に、取材をかけて私なんかより業界を熟知した記者やデスクの審査を経て記事になるんだから、記事に関わった著者の意思(悪くいえば思想)も踏まえたうえで行間を補完せざるをえないわけで、個人的にそういうことならそうなんだろう、という形でスルーしていた。
 ただ、一部の現場の者や経験者は発作的な拒否反応をしているのを見て、またそれもどうなんだろうというのが中身ではある。

 不正が『数十年前』であるのはあくまで『関係者』の話であるために会社、組織、プロセスにおいて適切に判断できる立場にいた者かどうかわからないこともあるが、『関係者によると、製造過程で顧客が求める水準を下回った規格外の製品を出荷することを「トクサイ(特別採用)」という隠語で呼んでいた。』という部分は、いわゆる本来の「特別採用」と『隠語』としての「特別採用」を模した契約違反であるとかJIS法違反などを伴う「トクサイ」という行為、プロセス、システムは、双方全く別物であるという認知が前提でなければ成り立たない。
 個人的にそういった前提の有無を記事を読んだ時点ではもうすっとばしてしまっていて、どちらかといえば、様々な良好なシステム、プロセスを参考にそれを模倣するとか擬態するなどして悪意あるシステム、プロセス群を作り出すのに費やされるそのエネルギーたるやどのような分野においても目を見張るものがあるなぁ、というのが正直なところだったりしたわけである。

 あと、私の腐った頭の中で合点がいってしまったのは、たとえば「特別採用」ではない「トクサイ」というシステムが社内外とのインタフェースにおいて齟齬を生じるためにその整流化の手法として改竄が行われていたとすれば、一般的な手法である社内的に特別採用の申請を行い客先と調整する云々といった手間が省かれるという効率的で画期的なシステムが誕生するわけであろうし、ステンレスのJIS法違反の際にはJIS法に対してどうか、という側面でしか出荷を認知しようとしていない風であったし、JISとは無関係の客先特注素材に関しては客先同士の個別の問題、というスタンスがとられている風(あくまで「ふう」)なところから「トクサイ」などという別のシステムが構築されていれば、不正の中身もそういう個別の扱いになるんかもしれんね、とか思っていたので。

 で。
 発作的な拒否反応を起こすのも分からなくもない。
 もし仮に「特別採用」が国内に限って規制されれば、製品にならない原料が増え、結果的に競争力を損なうだろう。
 要は私のようなそういった場所にすでに所属していない者からすれば洒落にならないレベルの死活問題だといえる。
 ただ、製造現場にを網羅的に管理、監督できる立場にある者が、「特別採用」の製品は仕様や基準値を満たす、と言い放っているのはどうかとは思ったりもした。
 考え方と表現の仕方の違いとも言えなくはないのだが、結局何がどういった製品なのか?という認知の違いなのだとも思える。
 現実問題として、製品として客先に出荷されれば全体が適合品として扱われるし、適合しているとするなら仕様や基準値を満たすと表現してもいいということなのだろう。
 ただ、考え方によっては製品の中には基準値を満たす製品Aと満たさなかったが何らかの補修、修正などを行い、客先の認可を経て適合検査をクリアした製品Bが存在する(それらは物理的に分離できるとはかぎらない)と考えてもいいようには思う。
 実は、前者の考え方というのは、企業倫理などのテキストで標準的な事例として扱われるもので、要求される仕様における値に幅を持たせること、もしくは仕様の許容差にさらに幅を持たせることは、すなわち自主基準であったり裏マニュアルといったものであり、踏み越えることが容易であることも手伝って品質の底抜けに向かってエスカレートしやすいと言われる。
 とはいえ、前者のような発想がある意味単純明快であることも確かで、特に全面的に悪い考え方でもないと思うし、かつその考え方で品保などの職責を全うする者も多いと感じるのだが、それは経験上、組織全体として問題があっても吸収できていたと捉えるよりも技術力、現場力、製品力などの力が強かったことにあるのではないかと考えたりする。
 というのも、先の自主基準を設ける動機が、例えばばらつきにおける上下の管理限界を超えそうという際になって初めて動機として認識されるものであって、管理しようがしまいがいっつもCLに張り付いていては動機になりえないからである。
 これは極論ではあるが、企業内で問題が発生しそうな工程とかプロセスなんてのはないということはまずといって存在しないわけで、一般的にその危険度と数の組み合わせで不正の起こりやすさは変わってこようと思われる。
 経験上、誰とはいわないし、いえないが、品質の底抜けが特定の個人のモラルで踏みとどまっているような構造の場合、当人の心が折れない限り組織は回るものの、異動すれば大穴が空く(システムの問題ではなく心(=気合い)の問題だったなどと言われたりする)とか、現場の各所からさらに多くの火の手があがったら当人のキャパオーパーで体か心か両方が折れる(一般的に労務的問題として扱われがちだが)なんてことがどれだけ続こうと問題の原因に近づこうとしないのは、製品を同じ製品として扱うことと、品質に関して別のシステムやプロセスを経たものを分離して考えることの両立ができない者だったような気がして少し怖くなったりした。
 個人的には「後工程はお客様」という概念がすでに比喩でさえなくなっている(お客様という概念が変わっちゃってるからね)気がするのが悲しく感じるのだが、それが世の流れなんだろうか。
 「後工程は虚無」で、ライフサイクルなんててんで無視で、そしていつの日か放り投げたものが空から順番に降ってくるかもしれない。
 けれども当時者はその場にはきっといないのだ。