うどん

 「すまん、讃岐人は丸亀製麺とか偽物、って言うんだけど、...」というのを読んで思ったことなどを。
 私が聞いた話では、なぜ偽物かというとうどん県第二の都市である丸亀市(多分、県民以外だと普通の人は知らないと思うが)で設立されたわけでもなく、社長が丸亀さんという名前でもないのに「丸亀」だから、ということらしいのだが、どうなんだろう。
 あと、私の感じ方が古いだけなのかも知れないが、最近の「まずいうどん」「うまいうどん」でことばが終わってしまう表現を用いる者が、生粋のうどん県民であるかのように振舞っていたりするが、本当なのだろうか?とか思ってしまうことがある。
 「うまいうどん」ではなくうどんがうまいのは主食なのだから当たり前であり、「まずいうどん」ではなくまずいうどん玉だったのでこうやって食べたという形になるように思う。
 まぁ、私のような底辺家庭ではそうだっただけかも知れず、裕福な家庭であればいつでもよりよいものを選択でき、それゆえ、よくないものを引き当てることを忌避するのかもしれないが。
 あと、元増田の内容になるが、大昔からうどん県民は、他県に旅行に行って食堂に入れば、メニューもそっちのけでうどんをオーダーし、うどん県に戻っては、○○県のうどんはまずかったと吹聴するのが常だと言われていたものだ。
 まずいのが分かっているなら頼まなければいいのだが、いかなる場合でもうどんに手を出すのはある意味刷り込まれた条件反射なのかもしれない。
 結局のところ、塩と言えど本当に塩なのは赤穂だけ(=純白の塩は赤穂藩のものだけ)で、うどんと言えどうどんなのはうどん県のうどんだけという話なのだが、グローバル化を考える(国内レベルでグローバルもへったくれもないが)ならば、方向転換しなければならないのだろう。
 近頃ニュースになったスペインでのうどんの商標登録問題なんかも根は同じで、それこそうどん県を世界に標榜するなら県予算ですべての国の商標を取るなり、最近納豆で話題になったが、国際食品規格委員会(CODEXの方が通りがよい?)にうどんの国際規格化を県予算で働きかけるとかした方が「えせうどん」と呼ばれるようなものは減っていくかもしれない。
 何というか、パスタでもアルデンテな状態で盛り付けられているのをこれがパスタやで!とありがたがるのと似たようなもので、乾麺のゆで湯とゆで時間をケチったような硬さのうどんをありがたがる者もいるのは事実ではあるが、私自身さすがにもう面倒くさいと思う年齢になってしまったのもあり、たとえ度を越しているような場合でも想定した食品とか料理だと思って食べるからその乖離に涙するのであって、生物学的に有毒か養分になりうるかのレベルで判断する別の食品や料理だと考えて食べた方が精神衛生上いいようには思ったりする。
 味覚も好みも人によって千差万別で、さらにはその幅や範囲内での感じ方の強弱も当然違うわけで、どのように感じようが感じた当人が正しく、この味が分からないのはおかしいと相手に働きかけるのも、相手の味覚状態を確認できない以上、結果的に迎合された可能性の排除できない状態を望んでいるのかな?とか思ったりするので、とある味を感じたなら、それは全てが正しく相反しないと考えた方がよさそうな気がする。
 個人的な判断はと言うと、うどん玉の質によって調理方法を変える方向で考えるため、思った以上にどんなものでも味的に大丈夫だったりする。(こういう人は少ないのかな?)
 その昔、手打ちうどん店で修行中の者が練習した失敗作をもらっていたことがあった(みみっちい話しだなぁ。)が、まず、直接少しかじってみて食べ方を考えていたものである。
 しかしながら、店舗でメニューとして設定されたうどんを食べる場合はそうもいかないわけで、個人的には何種類か食べてみて傾向をつかんでから(もしくは他の客が食べているのをチラ見したりして)個人的な好みによさそうなものに近づけていくことが多いのだが、例えばうどん県民ではない旅行者の場合だと同様の手法をとることは現実的でないと思う。
 例えば1点買いのばくちというプロセスを用いるなどの状況でありながら、そこから無理やり総合評価しようとすると、ある意味確率論で「おもて」だったよ、という発言に、いやいや「うら」でしょう、と言い合っているのと変わらない断片的な評価による相違ということにもなりかねない。
 あと、個人的に、完食はしたが県内のうどんの味の違いが分からなかった、というのはほめ言葉だと思っていたりする。
 今のところうどんの味に関する確たる規格・標準がない(当然それとは別にJASはあるが。)し、恒常的なベンチマークがあるわけでもないなかで、旅行者からひとすすりで店を立ち去るようなことになるようではうどん県の名折れであるからだ。
 また、あまり違いが感じられないのはその違いを感じなければならないのではなく、県内の店舗群における品質が一定の水準で保たれている、ひいてはランダムサンプリングとなる県外旅行者などにとって断片的な評価が全体的な評価となるプロセスにおいてさえうどん県を体現せしめるための一定の成果が得られるレベルに達していると捉えていいように思う。
 昨今のうどん県としてのPRの効果からか、その昔うどんを注文すると数件隣の商店にパック詰めのうどんを買いに行くような小汚い食堂も多数存在していたが、そんな小型店舗でも旅行客が迷い込むような時代の流れに伴い、少なくともそれはないだろうと思えるような店舗はそれなりに淘汰されてしまったのではないかと思うのだがどうなのだろう。
 情報化が進みSNSが隆盛を誇っている現在だけに、県内でどこの店がまずいなんて情報が集積され、自身が行ったことのないような店が掲載されているなんてことがあったりするんだろうか。

 と、いろいろ書きはしたが、何はともあれ、私は今日もうどんを食べたわけである。
 多分、明日の朝ご飯もうどんだ。(「ご飯」じゃない。)
 もはや、宿命なのだよ。