通常運転

 いつも書いている気がするのだが、今回のネタも同様な構造と思われる。
 記事は「不祥事拡大の鍵を握る「問題の単純化」 (日経BizGate 11/30)」なのだが、日経の無料会員に登録して以降記事のザッピング中に目に止まった際に、「あ、BizGateか・・・」と嘆息してしまうことがある。
 単に私個人の趣味や傾向の問題として片付けていい話ではあるのだが、私自身の捉え方としては、当該サイトの記事をこれまで何本読んでもトリッキー(日本語化すると色々当り障りがあるのでカタカナ用語を使ってみた。)だなぁ・・・という感覚が先に立つ。
 おかげで、数歩どころか100m程度下がって記事を読むようになってしまった。
 多分、大事なことが書かれているのかも知れないが、すべからく疑ってかかりながら読むのは疲れるため、極力読まない傾向になりつつある。
 で、今回の記事は、自身がよくネタにしている領域なので何か新たな知見がないものかとあえて開いてみたという流れとなる。

 さて、記事の内容は著者が法律事務所の代表弁護士というほかにも錚々たる肩書きが並ぶ御方である。
 それゆえ、大前提としてゴミカスがどうこう言える立場ではない。(それでいて書いているのは察してもらえればと。)
 Web記事としては結構な長文(5ページ分もある)なのだが、全体として言えることは、『危機対応においては、適切な外部者のサポートを受けることが重要なのである。』と文中で述べている(まぁ、悪意ある引用だと言われればそうなのだが)とおり、多分、この記事を読んで知識を得て加えて『適切な外部者のサポート』を受けない(当然カネの面などもあるだろうし)選択肢を取ることは現実として不可能かもしくは命知らずな無謀者ということになるということに尽きるように思われる。
 それは、著者が先ほどのとおり様々な箇所に顔がきくと思われる法務系の実務家であるがゆえにしろうとから見ればアクロバティックな行為であるとしても安全にかつきりぎりまで攻めた行為として完遂せしめることが可能なのであって、それをただ真似るだけであれば死が待っているといっても過言ではない。
 ある意味、このしろうと目に同様であるかに思える行為でありながらその結果の明暗を分けるのは、その筋の専門家であるとか達人であるとかスペシャリストであるがゆえの差と考えてよいかもしれない。
 要はプロから見て営利企業であるならば「やりすぎて過ぎることはない」という方法ではダメだという資本主義の基本に立ち返っている話ではあるのだが、逆に「やってないところがあればすべてが無駄であり死を意味する」という話でもある。
 まぁ、タネが分かっていればトリックだしタネを知らなければマジックというトリッキーさだとも言えなくはない。
 なんだろう、この記事に限らずある程度知識がなければ間違えて理解してしまう、行使しても効果がない、目的とした結果を生まないといった可能性が格段に高い記事の構成を意識的に行っている気もしなくはない。

 細かい話。
 『不祥事報道の大きさに影響する要素』にマスコミ(主に新聞、TV)の報道を真っ先に挙げ『マスコミがその不祥事をどのように報道するかに強く影響される。』と断じている。
 記事を読んでいけばおよそマスコミがどう報道するのか、どういう形でマスに情報が変質して伝達されるのかに終始しており、記事全体としての流れから最後の結論にたどり着くことに論理的矛盾は感じないが、『マスコミがその不祥事をどのように報道するか』は行使する主体とその制御が不祥事を起こした当事者に委ねられてはいない。
 それゆえ、不祥事を起こした当事者にとって直接的にコントロールすることが最も難しい領域の1つとなるわけで、情報等の扱いに対して制御不能になる前の段階で想定どおりの機能を果たすべく腐心しているということだと思われる。
 しかしながら、実態として「いない」と断じていいかどうかは会社なりその会社の人脈なり著者のようなプロからすればそうとも言い切れないという領域に入っていくと思われる。
 あくまで下衆の勘ぐりに過ぎないが、昨日の某広告代理店の自浄能力発言問題による懲戒処分とそれに付随してことの発端となったNHK NEWS WEBの報道記事の削除などといった流れに関して、主体とその制御への働きかけといった事例として考察することも可能かとは思われる。
 いずれにせよ、それを書いてしまうといろいろマズすぎるわけで適当に行間でも嘗めてろということなのだと思う。
 逆にそういった考え方をしなければ、一般企業に対して先の『適切な外部者のサポート』や『「第三者委員会」を設置して』などといった提言に直接的につながらない。

 次。
 記事のタイトルにもなっている『問題の単純化』なのだが、不祥事に関する情報の伝達プロセスにおける変質として『「画像・映像・イメージによる単純化」と、「言葉による単純化」』の二つに分けて具体例を示しながら解説している。
 ここで、著者が分かってやっているのか分からずやっているのか構成上そうしたのかはよく分からないが、およそ記事の読者は企業人として不祥事に対応しなければならない側、もしくはその企業に属して業務に何らかの影響を受ける側であろうことを考えれば、マスにおける単純化がはたして単純化に該当するかどうかということよりは、不祥事を起こした側がマスを認知する段においてマスからのレスポンスの類型化した結果が単純化された形に変質しているということを認知し考察するのではないのかと思う。(本質的には直接的な関係者(例えば被害者本人)、間接的に意識せざるを得ない関係者(被害を受けなかったユーザなど)、マス(はやりのビッグデータそのものや可逆性を損なわないレベルでの認知を行う方向性のもの。これを2つに分けることもある)、マスを構成する個人、作られたマスの仮想イメージ、分析・類型化・リモデリングなどを経た概念化されたマスイメージ)などを分類して認知する(当然独立項ではなく重なり合っているわけだが)必要はあるが、そこなあたりはめんどいので大雑把にかつごたまぜにしたまま進む。)
 卑近な例で言えば今回のアメリカ大統領選挙の事前世論調査などのマスに対する調査が現実を十分に反映できていなかったのではないかと言われるのと同じで、それこそ冷戦後に二極化から多極化に世界が舵をきって以降、外部から観測するマスのレスポンスから各個人の属性を類型化し集計しづらくなったといわれているぐらいなわけで、ここでも企業不祥事などを専門に扱い百戦錬磨のプロでなければ気付かないような微妙な舵取りを一介の経営者風情やお雇い社長に務まるわけがないということになるのだろう。(いや、まぁ表現としてそうなだけで、私がそう思っているわけではないが)
 実際のところ、最近の不祥事の炎上においても不祥事を起こした側が認知したマスのレスポンスをもって推測したマスの認知とマスの認知そのもの(それが他律的に作られたものである場合も含む)の乖離によって引き起こされているケースが多いように私は思う。
 例えば前者の単純化の例としてカネボウの美白化粧品の問題を挙げているが、かの件を全体的に振り返ってみれば、マスの認知と企業側が間接的な情報からマスを推定しその仮想的マスに対する対応を設定するに至るタイムラグの大きさから問題が長引いたようにも捉えることができる。
 まぁ、ぶっちゃけてしまえば、『肌がまだらに白くなった女性の写真が繰り返しテレビで流され』たとしても、それはイメージの固定化であって、企業とマスの認知が「写真のような白斑被害が出た」ことに認知の大きなずれがあったとは思えない。
 結局のところ、被害者個人とマスと作られた仮想的なマス(昔はTVなどのマスメディアによって作られるとされていたが、最近のSNSの発展云々で多元化はしている)の認知、意志とそれらの企業側での認知の時間軸も含む多次元的なずれを的確に把握した上で適切な対応ができなかったことに問題がある気がする。
 一方後者は阪急阪神ホテルズが運営するレストランの故意による食材誤表記(一般には食品偽装と報道されたが、要は同義である)を例に挙げている。
 これもマスを分解した一個人として捉えた場合、例えば「バナメイエビを芝エビだと偽っていた」から当時叩いていた(多分、今そのエビの名前を覚えている者も減っている気もするが。ちなみに私は双方のエビの味の違いは分からない。貧乏舌だからな。)はずで、かといって企業から観測したマスの意志は「偽装したから悪い」というように認知できてしまう可能性も高いだろう。
 この場合、単純化は不祥事を起こした企業側の認知と分析、類型化によって単純化されてしまったわけで、外部での単純化ではない。
 ただし、当然ながら周囲に迎合して面白半分にはやし立てているだけの者を想定すれば、単純化は個人で発生していることにはなる。
 とはいえ、この考え方は存在しうるプロセスの1つであるといった厳然たる事実であったとしても、不祥事を起こした企業側がその認識の上に立って行動することはかなり企業としてリスクとなるのではないかと、特に事例を示す気にはならないが散見されるものではなかろうかとは思う。
 実際のところ危機管理においてマニュアル化される理由の1つとしてその場での人間という生体機関を用いた即応性はエラー率が大きくなる傾向にあることが挙げられる。
 また、人間自体生物であるがゆえにその生存本能から自らの分(多分、高度な領域の能力ではない自律神経下で機能するような低レベルな領域のもの)にあわせて瞬時に優先事項を決定し周囲をごっそり切り落としていく行為に及ぶことも人間工学から述べられる点である。
 人間という生体そのものを想定すれば命あっての物種だったね、と言っても差し支えない同様な結果を導くことは可能かも知れないが、残念ながら、複数の人間によって構成される組織、企業などが1人の生体の生存本能による行動によって引き起こされる影響が必ずしもマスタースレーブ式に同期するわけでもない。(ワンマン企業が即応的に対応可能といったメリットはこういったところから説明できたりもするが、別の話。)
 とはいえ、そういった1人の人間の行為が組織、企業などといった集合体としての意志として認知されることが多いのも事実であろう。
 阪急阪神ホテルズの件はこういったよりインパクトの大きい情報に書き換えられることと先の認知の対象領域の拡大に起因しているのではないかと思う。
 どちらかといえば、こういった情報伝達に伴う単純化(情報の欠落や汚濁を含めてよいのかは疑問が残る気はするが)と先鋭化(本文中にある単純化されやすい不祥事とされにくい不祥事といった部分に関して言えば、個人的には後者は狭視的、微視的な部分抽出や感情的補間を経て先鋭化する傾向にあるように思う。異物混入や粉飾会計などの組織運営システム関連の問題などで例が挙げられるように思う。)といった考え方は、そのプロセスそのものを悪として認識するか、もしくは悪用するかのような思考法に陥る危険性があるのではないかと思えてならないのは、多分、個人的な主義的みたいなものだろうとは思う。
 というのも、そういった手法はプロパガンダの1手法としてどうしても認識してしまうからである。
 どちらかといえば、不祥事を起こした経営者からすれば、悪い意味で事案を吹聴されている(ひどい場合はそういった被害妄想に苛まれている場合すらある)わけで、ネガティブなイメージを持ちやすく、また周囲に悪を求めがちな心理状態に置かれる。
 そういう意味では、よりネガティブな思考を促進する手法はあまり勧められないのではないか?と思うのだが、プロからすれば全否定されるのだろうか。
 まぁ、第三者として乗り込む者はそういった考え方でもいいのかもしれないが、残念ながら、第三者がその企業の代表者を先述と同様にマスタースレーブ式に同期させる(悪い表現をすると裏で操る、とか)ことがことばじりや表情程度で拡大解釈される世界で有効に機能しうるのかどうかという気もするが、そういうマネジメントまで最近のプロは面倒を見てくれるのかもしれない。

 えーと、あと。
 しろうとが法倫理や法哲学を持ち出すべきではないのは承知しているが、いかに法の範囲内、もしくは実質的に適用されることのない領域(特に民法が基点となる領域)のぎりぎりで語っている感が強く、読んでいてかなり疲れてしまった。
 いろんな意味で、例えば法令遵守が行為や行動、提供する成果、サービス等が法令に適合することと同値ではないというのもありなわけで、何ともいえない領域ではあるし、そういった領域を高度な精度をもって判断が可能なのはプロでなければ無理ではないかと思う。
 実のところ、この記事での結論は一般的な事柄で締めくくられているのだが、はたしてこの記事を読んで個人レベルでよりよい対応が可能になるのか疑問ではあった。(該当しない者に言う資格はないともいえるが。)



 というような感じのことを記事を読みながら考えていたりしたのだが、多分、読む者によっては私のようなくだらないこととはまた別の様々なことをこれまた考えざるを得ないのかもしれない。
 そもそもこのサイトのてっぺんには「課題解決への扉を開く」と銘打っているのであって、ただの知識を提供するものではないんだろう。
 ただ、「課題あんねん!」レベルではダメでその課題の周辺事情などについて既にオーソリティ(広義を指す)で書籍だって何冊でも書いて印税収入で確定申告できそうなレベルよりもまだはるか上ぐらいでないと読んではいけない気がしてきた。