多分、参考にもならない古い方法

 まとめサイト系で「学年だよりをPDFで。 似たようなことをしたら…無残な結果に」にたどり着いたので、昔話でも。

 教育現場ではなく、また事例が数十年前の話であるため、参考になるかどうか分からない(というか、多分ならない)のがまず前提なのだが。
 コメで一方向の情報(学校でいうなら教師から保護者への一方通行的情報提供)に関してはPDFで、双方向の場合は紙でという使い分けをした方がいいのでは、というのがあったが、私もそれには賛成で、とりあえず、その二者を分離した上で書いてみる。
 まず、一方向の情報の電子化といえど、電子化の目的が違えばその実施方法も変わってくるもので、すずすけ氏が『紙が勿体ない。うちの市、年度末になると紙を買う予算がないって言って騒動起きます。』と述べているように印刷用紙に関する予算削減を目的とするならば、紙配布を廃止して電子媒体を用いた配布行為のみ行わなければ目的は完遂できないことになる。
 また、すずすけ氏が『二度手間』と表現した状況が一方向の情報の伝達において毀損なく実施できているかを確認することは、逆に双方向の情報伝達よりも難しく、ある時点で連絡した事項によって何らかのレスポンスが必要なケースなどにおいてそれなりの数の者に伝わっていなかったために問題が発生した、という事態が発生して初めて伝達もれがあったことが判明するなんてこともあったりもする。
 私が、とある企業で社内報の仕事を手伝っていたときの話なのだが、電子化にあたりどうやって紙媒体から移行するかが問題となった。
 実のところ、社員に関しては海外拠点の者以外は、たとえ泣き言を言おうと電子化に関する教育は役員が行っているということになっているので社員はおいそれとできませんともいえない雰囲気があったし、担当レベルで編集局に泣き言を言われようと社内情報化推進の経営計画の観点から大きく出れるわけで、じゃあ今から印刷して持っていくから口あけて待ってろなどと冗談でもいっておけば何とかなったようである。
 一方、大きな問題は社友の方々に郵送していたものをどうするか、ということで、この領域を電子化せず印刷を残した場合、印刷費がほぼ変わらないというまぬけな話になっていた関係上、どうしてもこの領域に切り込まなければならなかったというわけである。
 で、その方法は限りなく泥臭く、2年ほどかけて(計算上は20回配布した)可能な限り紙配布と電子配布をセットで行う努力をするものとし、メールPDF配布、Webページでの閲覧、WebページからのPDFダウンロード、イントラネット経由での配布、関連企業間情報交換システムでの配布を取り揃え、配布パターン等の状況を手紙で連絡、電話で直接連絡するなどして個別対応をしつつ、最終的に数人レベルまで紙配布を押さえていた。
 今では、ここまでの移行準備が必要かどうかは分からないが、実際のところ、正しく伝わっているかをある程度確認しながら実施するならば、一時的にコスト削減どころかコストが倍増するという状況になっているということになろうかと思う。
 結局のところ、特定のデバイス、特定のアプリケーション内でのサービス提供において、その中での満足度を測定するのが商用の世界での話であろうが、特定の人間群を基点に特定のデバイス、特定のアプリケーションを用いるよりほかない電子的なサービスを提供するならば、必ずしも対応できるわけではないという前提で満足度を求めなければならないところが、単純ではないところであろうと思う。
 また、企業の場合は、毎年1/6入れ替わるようなとんでもない離職率を誇ることはまれだが、小学校ではそれが当たり前で、すずすけ氏の『30部くらいの印刷ですみました。全校児童の5%ですね。』から学年の児童数を推計すれば、約100名が毎年入れ替わり、情報取得に関する能力を毎年一定まで引き上げることがそれを本業にする者もいないなかで可能かどうか、という問題が出てきてしまうのではないかと思えてしまう。
 ISDNとかの時代に、同様な電子化を行った際、通信費はだれが払ってくれるの?と聞いてきた保護者がいたという話を聞いたのだが、こういった話が出始めると、もう電子化なんてやめた方が無難じゃないかな、という気もしたものである。

 一方、双方向のものになると、全員を満たすことを考えれば、被教育者側がある程度受け身であることを容認される風潮であるがゆえに、被教育者側の自助努力よりも教育者側の手戻りで解決する圧力が大きいように思う。
 それゆえ、手戻りを許容できない目的を電子化に持たせるのであれば、実現はかなり難しい、もしくは別の箇所にしわ寄せが行くように思う。
 個人的な経験からいうと、電子化とは別なのだが、媒体が一時的か恒常的かは関係なく切り替わるイベントが存在すれば、どういう領域でもデバイドというほどではない認知の錯誤が発生している、もしくは大きく発現してしまう個が存在するように思う。
 例えば、会員企業の担当者に紙で書類を送付し、送付した用紙に記入し、押印し、返送くださいとすれば確実に返ってくるにもかかわらず、記入した用紙をコピーし、双方押印して返送してほしいとした場合、正常な回収率が極端に下がったりする。
 で、同様の指示で記入用紙を2枚送ると1枚に記入しコピーして双方に押印して送ってくるようになったりするし、正常な回収率が上がったものだった。
 こういった現象に何か決められた名前があるのかどうかは分からないが、結局送り出した側が電子媒体であれば電子媒体のまま処理して電子媒体で送り返す形でないとただしいデータの回収がままならないと考えていいように思う。
 こういった確実性を考えて、コメでタブレットを全員に配るという手法が提示されているようにも感じる。
 ただ、確実性という全体を考えた場合の満たすべき事項とは別に、手戻りを起こした者以外(すずすけ氏が『ITリテラシーが高い方』と表現するような属性の保護者)にとっては、教育者側に迷惑もかけず、保護者側は紙配布より効率的で便利になったと思っているとすれば、そういった被教育者側の利便性が犠牲になってしまうことも問題視されるべき事項のようには感じる。
 とはいえ、感じたからといって教育者側としては手の打ちようがないのが実態だとは思うが。

 紙の話。
 今でこそ、というよりもうかなり前から、コピー機が一般的となり、それゆえ「複製して配布する」ことの前側に乗っかっているプロセスは格段に自由度を増し、一方で「複製して配布する」こと自体が内製化されて当然として扱われるようになった。
 それが当たり前のものとして受け入れることをやめることが今更可能かというと無理なのだが、私の小学生の頃など、謄写版(いわゆるガリ版)か大量印刷の場合は回転式謄写版しかなかった。
 そういった意味では、配布される情報というものは、印刷専門業者でなければ限界があるというのはしかたがなく、また逆に保護者側がそれを要求したとしてもがんばっても無理なものは無理だし、出せといわれても出しようがないというのが現実だったし理解されていたように思う。
 実際のところ、コピー機が普及して印刷が簡便にかつ高速に行うことが可能になったからといって、それ以前はかなりの部分を外部の印刷物に頼っているという外注的扱いから「複製して配布する」ことを内製化した関係上、教員の労働時間は増えてしまったのではないかと思ったりする。
 それなりにインフラ投資が可能な企業であれば、PCから直接コピー機に送って200部ホッチキス止めといったレベルをほぼ自動でこなす機種も存在するし、中折り、三折りも自動で行い製本、2穴あけしてくれるような機能もあったりする。
 コピー機の前で立ち尽くしてかなりの時間を浪費することとその時間をインフラで削減し他のデスクワークに割り振ることのコスト見合いで基本的に企業は設備を導入していくわけだが、残念ながらそのような動機付けはほとんど存在しないのだろうと思う。
 あと、「電子化」ということばが華やかなりし頃、電子化すればいかなる場合も紙を減らせるという幻想に取り付かれていたということが問題になったりした。
 それは、折りしも環境問題やらそれ以上に不況に喘ぐからこそコストを削減しなければならない現実から目を背けることができないという観点から、電子化によって組替えられたにも関わらずそれなりに紙を消費するプロセスにおいて再度いかに紙を減らすことができるか検討してプロセスを再構築するということが行われたらしいのだが、私はあまりの面倒臭さに逃げ出したので詳しくは分からない。(多分、そういった件に関しての参考書などは多く出版されているように思う。)
 ただ、この現象を援用すれば、たとえ電子化の比率が低かったとしても、環境の変化等から業務遂行プロセスを組替えること自体が様々な法令等に抵触しないという前提としてだが、検討してみることで「電子化しよう」という観点からではない紙を減らしてコスト削減が可能な手法が見出せるかもしれない。
 とはいえ、それは私企業で多数の事例を参照できるものではないと思われるため、踏み切るのには多大なエネルギーが必要かもしれないが。



 あと。
 『ScanSnapで読み込み』というのを読んで悲しい気分になってしまった。
 竹やり云々とまではいわないまでも、さすがに予算をつけなさ過ぎるから労働時間が伸びている気がする。(市の財政状況いかんでどうしようもないこともなくはないだろうが・・・)
 例えば、複合機なんてリースさせてもらえないんだろうしなぁ、とか。
 旗を振ることは旗を振るだけじゃないという禅問答か何かのような話があったりするが、要は行動する/させることにその結果の責任と義務が適切に行動計画に寄与しなければ、多分、世の「やってみた」よりも行き当たりばったりになってしまうように思える。
 ただ、それもそれぞれの権能上私企業と同列に扱えないわけだが、何というか、歯がゆい、というほかないかなぁ、と思ってしまった。