朝OK 夜OK



ワタシは○○がヘタとかいう古いネタ

 タイトルは関係ない(タイトル考えるの苦手)んだけど、増田にあった『「文章が下手ですみません」にいらっとする』という記事を読んで興味深いなぁ、と思ったので少し。
 いつもどおり、釣という可能性は非常に高く、それなりにトラップを仕込んでいるんじゃないだろうか、とか思いはするのだが。
 で、まず、私の属性としては「下手」であることを結構書きたがる方なので増田とは対極に位置すると思う。
 ただ、さまざまな書きなぐりのほとんどにおいて下手云々とは書いたとしても『すみません』とは書いていないとも思うけども。

 さて、増田の論旨というのは、
  ・「文章が下手ですみません」が『文章の最後』にあるといらだたしい
  ・理由は、、、、、、んんん・・・・?
というもの。
 私のように書くことが下手な者は、読んで理解するのも下手というのが、経験的ではあるものの傾向があるように思えるので、そういう形にあてはまっていると思われる。
 ということで、分からないながらむりやり読み解いていく。

 『文章の最後』という表現は結構くせもので、形式的な文章(例えば手紙とか)における結び、末文を意味するのか、本来の意味でのブログといったインデックスにつなげて文を書きっぱなしにしても成立するような世界でのひとまとまりを指す文章における最後の方にあることをいうのかによって変わってくると思う。
 前者の結びや末文である場合、その多くが形式化し、字面どおりの意味を持っていないもしくは意味の整合性が保てないことが多いように思える。
 以前、手紙の最後に「草々」とあって「笑うところなの?」と尋ねられたという馬鹿話を聞いたことがある。
 馬鹿話ではあるが、真剣に考えてみると、果たして成り立ちや意味を体系だって理解するよりも言語のインプット・アウトプットに伴う心理変化を鑑みれば、一時的にではあっても意味をくむべきではない形式的で定型の記号であると考えてもらった方がいいのではないか、とか思ったりしたものである。(意味をくむことを拒否しているとか、くむことができない場合は、また別だろうけども)
 同様に、下手云々は、手紙の末文として用いられる定型の「乱筆乱文のほど、ご容赦ください。」に似た表現だとは思うのだが、この定型文でさえ、筆でしたためてない以上間違っていることになるし、いささか恥ずかしい表現だとは思う(多分、手書きか何かを電子データに持ち込んだ際にそのまま放置したのだと考えられる)が、「右、書中をもってご挨拶申し上げます。」って横書きだから右には何もないぞ、とかいったつっこみが入れられてしまいかねなかったりする。
 例えば、増田が乱筆云々というのは問題なく受け入れられるが、下手云々は癇に障るというのであれば、いわゆる表現に関する好き嫌いなので個々の個性であってあってしかるべきだと思う。
 ただ、定型表現を行うことに関して、増田は『日頃十分に文章の修練』を行うことを求め、その成果として『「文章が下手ですみません」などという弁明は要らないし、そもそもそんな言葉は出てこないはず』としている。
 このことから、
  (a)定型文を意味するものではない
  (b)増田が定型文を知らない
といったような仮説を立てることができるが、多くの場合、(a)であれば増田のいう『文章』とは後者の原始的なブログとして機能する文章(文章群や箇条書きなども含む)に限定的に適用されることになる。
 また、いわゆる雛型が存在するような文章で見られた表現であれば、乱筆云々といった形式の末文として補完的に変換していくといった読解がなされるべきであるが、他者に日頃からの『文章の修練』を強いる増田であることから、増田本人の修練度合いと言語への認識のレベルとが乖離するため成り立たない。
 同様に(b)も増田本人の要求と当人の能力との乖離が大きいためそもそも仮説になりえない。
 では、先の原始的なブログとして機能するような文章(広義としては歴史的な経緯のある定型様式ではない文章)である場合、字面どおりの意味をなす下手云々という文が後方に配置されれば、『下手だとわかっているなら書き直すべきだ。』という考え方も賛同できる。
 しかしながら、『読み手の時間を奪う行為』であるかどうかは、個人的には、「よく分からない」となってしまう。
 まず、1つめの考え方だが、増田が『文章の最後に「文章が下手ですみません」とか書いてある』ことに遭遇している状態は、理解(必ずしも言語的意味理解が十分でなくてもよく、当然ながらそれに伴う論理的思考も必須でないレベル)しながら最後の当該文までたどりついたか、スクロールしてすっとばし最後の方を見たかだと思われる。
 増田が読む必要性に迫られる(または自発的に必要があると考えた)文章がどのようなものか限定されていないために具体的に想像することは難しいが、少なくとも増田にとって必要があり、たとえ、先のレベルの下限であるような状況下でありながらも理解して、さらに先に読み進め、下手云々にたどりついたのであるなら、増田の求める必要な事項がそこに存在しないとは考えにくい。
 よって『「文章が下手ですみません」とは本心から思っているわけではない』ことは、増田の実用性から考えて適切ではあるのだが、この領域で発生する増田の心理的な変化(ここでいうならいらいらすること)が感謝や賞賛に類するものではないことから、整合しないため仮説として成り立たない。(確かにツンデレならばありえなくもないが、、、「か、勘違いしないでよね!別にアンタのド下手な文章なんてこれっぽっちも読みたくなかったんだから!」を先回りされて素で返されてしまっているとイラッくるのかもしれない。私はツンデレではないので体現しがたい心理構造ではあるが)
 2つめは、『読み手の時間を奪う行為』が難解だったり散漫だったり虚偽や不完全な思考の転記・重複などが存在しているがゆえにより時間を要することを指すとして考えると、個人的には「分からない」というか、場合によるので判断が「面倒臭い」と言い換えるべきなのかもしれない。
 レスで『自分本位』という表現が見られるわけだけども、読み手の時間を短縮するには書き手の時間を奪っているのではないか?という極端な考え方も可能であると個人的に経験としてそう思えたりする。
 今でこそ業務文書の効率化だのどうだのというのが三流企業の上から下までだろうと聞いたことがない人はほぼいない世になったのではと思えるが、昔は同一案件の社内資料を人ごとに3種類ぐらいボスの下で作らされていたことがある。(手書きとワープロ専用機が混在していた、もはや多くの者が体感できない「いにしえ」の時代のことだった)
 過去にも何度か書いてはいるが、言語の機能のうち低次元のものの1つが伝達であって、何らかの意味理解が必要である点において言語を操るためには当該機能を満たすために相互が補完する必要があるし、またそういったプロセスが必要である。
 こういったことは、言語を用いる活動を行う上で体験的に体得できるものであるし、また『文章の修練』が行われていれば体系的に理解されていくものであるが、同様に『文章の修練』を他に求める増田において『修』が足りていないと考えることは難しく、仮説として成り立たない。
 すっとばして後方を見てしまった場合であれば、タイトルを斜め読みするコンマ数秒とかスクロールする時間さえ効率化したい場合を除けば、著者の真意とは無関係にちゃんとオチがつけられており『読み手の時間を奪う行為』には該当しないと思えるので条件からは除外したい。
 とはいえ、先の『修』とは別に、いわゆるひどいオチが生理的に嫌い的な場合もある。
 例えば、『文章の修練』をしたところで、「という夢をみた。」といった夢オチとか実は広告でしたとか、「これはフィクションです。」みたいなオチだとかに心を揺さぶられる(別の意味、多くは悪い意味で)のは、どちらかといえば別の『修』だとも思える。
 ただ、著者が『「文章が下手ですみません」とは本心から思っているわけではない』含意をもって表現したことが、『文章の最後に取ってつけたように「文章が下手ですみません」と書いて許してもらおう』としていることであると結論づけてしまっていることから、この仮説も成り立たない。
 また同様にオチをオチとして認知できていない場合を想定するとしても、『文章の修練』がなされた増田にそぐわない。

 ということで、増田の言う心理変化が示す理由らしきものにつながらなかった。
 多分、何らかの見つけられない仮説があったりとかするんだと思う。
 そして、つながらないということは、少なくとも「文章が下手」な属性側の私の方に理由があって言語的な行為が適切に実行できないのだということだけは確かなんだろうと思う。



 で。
 それとは別に、冒頭に釣なんじゃないかな、と思えたのは、増田から『文章を十分回数推敲して丁寧に書き上げ』ることを求めるようなあおりを入れられれば、逆に推敲したくなる心理を突いて、穴をあらかじめ掘っているのかと。
 例えば、書式上3箇所のうち2ヶ所に読点があるのに1ヶ所読点がないとか。
 法令とか条約とかの前文にあるよね、なんていう名前の記述形式か知らない修練のなさなんだけど。
 で、私の指摘箇所が間違ってたら穴を掘って掘った土に埋まりたいぐらい恥ずかしいけど、まあいいや。
 そして、オチは書かない。