朝OK 夜OK


その2

 先日のアートアクアリウムの件で多分テレビ番組か何かの主催者が発言しているいくつかのスクショを見て、苦笑いするしかないかな、とか思った。
 およそテロップ部分のスクショであるところからして発言の流れとか切り抜きなのかどうかとか、それ以前に本があるのかどうかというのところまで考えれば、その程度の情報から解釈しようとすること自体が間違いそのものなのだけども、私自身に都合よく解釈するとして、前回の記事最後の冗談にマジレスされた形になってしまっているのが、どうなの、、、という意味での苦笑なわけなんだけども。
 『ここにいる金魚たちが世界中で一番幸せ』とか『ここに来た魚たちは他のところよりもいい待遇を受けている』とかいうのは、例えば労使間で交わされるよくある場面の一つの比喩なわけだから。
 ただ、あらためて冷静に考えてみると、私がふと思い出したことを書いたこと、そして主催者がそれに呼応しているっぽい(当然それは「ぽい」だけでただの偶然なのだが)発言を行っていることも、今回の件について問題視している者にとって何らかの共感を得るものであるのかどうかは別問題だとは思うけども。(いや、正直、得られないとは思う(なってないけど反語表現))

 で、個人的に今回のことに限らず昔から考えているのは、生体を扱うとか飼うとかいう領域に踏み入った際に、幸せは何か?をそれ相応に考えざるを得なくなる(ならない場合は除く、というかこの部分はかなり面倒なのでそういうことだということにここではする、また主語は直接的に2つあるものとする)という点に関して一部では情操教育がどうだとかアニマルセラピーなどの動植物などの介在活動の理解がどうのなどといった話にもつながっていくとされる。
 しかしながら、双方が言語などを用いた高度な伝達手法をもってしても正しさを確実に規定することができないのにもかかわらず、それ以上に伝達手法が限られた中で適切かどうかを自問しても正確かどうかはより不明瞭になりがちで、突き詰めれば、はたして意味のある思考なんだろうかとか思えてくることもあるように思える。
 とはいえ、そういった思考を呼び起こす事象というのは生体に関連する以上、単純な思考実験とは異なり、一方が思考し答えが出るまで一方の都合にあわせて待ってくれるわけでもなく、何らかの判断を下していく、または下してしまわなければならない、下してしまったことになることが特徴となると思う。
 そして概念的に意識するかどうかは別として、自身の判断とその結果と結果に対する自身の評価(第三者が介在する場合もあるし別の事項もあるけどもここでは考えない)を蓄積することになる。
 実のところ、ペット飼育のようなたぐいを体験すればいかなる者においても情操教育によいかどうかは学者でもなければ研究者でもない(授業は受けたけど)ので否定することはできないけども、ペットを飼っているからといって学校で至傷的行動を繰り返したりペットを飼いながら児童虐待している事例を考えるとたとえいい方向に寄与するとしても法的とか社会的基準に届かせるとは限らないように思える。
 さらにその基準内に収まっていたとしても各個の考え方とか価値観とか倫理観などはそれなりの幅、範囲の中でスペクトラム様に分布していると思われる。
 また、先の件で逆に否定できないだろうなぁと感じるのは自らの行動と相手からの評価と自らの感情(正確には相手(ここでいえは魚)からの評価は完全な観念的なものでかつ類推でしかない)を知覚し続けていく蓄積の中で、何らかのバイアスが良し悪しに関わらず多かれ少なかれ効きやすいと考えられるということもある。
 正解がわからないもしくは正解が存在しないことからして何をもってバイアスなのかという問題はあろうかと思えはするが、今回のような状況(というか、昨今の時事的でゴシップ的な内容の多く)は社会で瞬間的に醸成される(日本語おかしいけど生成過程的にはそんな感じかなぁ、と)斉一性を基準としてバイアスを類推することで求められるものでしかないだろうとは思うのだけども。
 そういった意味で、同列に扱って欲しいとはひとかけらも思ってないだろうとは思うが、双方とも相対的に歪んだ世界(意味としては認知、になるけども)にいるということなんだろうなぁ、とか思った。
 ただ、立場の違いというのは大きいだろうという言い訳はできなくはないけども、似かよった認知から派生する思考とか自らの落としどころとか行動とかは異なるだけで。

 と、空想なところはそれはそれとして、何となくだが、発言は先日に触れた記事の『見苦しい』を否定したかったのではないのかなぁ、という気はした。
 ただ、残念ながら児童虐待で「虐待じゃない、しつけなんだ」と言ったところでよりよい方向に理解してくれないのと似てなくはない。
 結果に至った意志と手段は一体不可分でありながら、思う以上に第三者は独立して評価し、それらの評価が相互に干渉し合う構造といえる。
 ただ、幸せたらんとするために行ったことということに変わりはないわけだが、その構造自体が他者や社会にどう認知されるかは別として、個人的な考えからすると虐待の場合は法的な根拠があって意志ではなく手段が封殺されるが、今回の場合は、手段は特に規定されるものはないことから意志を提示すればよいことになるとは思われる。
 ただ、別として、としたように成り立つかどうかも別である。
 いずれにしても、両立させるためにはどちら側か一方を立てて弁明したところで両立はしない。
 また、双方うまく弁明できたとしても両立が成立していなかったことからすれば、少なくともその弁明できた概念からつくられたシステムのどこかに問題点を抱えていることに他ならない。
 とはいえ、そんなことはどうでもいいんかもしれんのだけども。
 そういったところに対する解答のヒントをくれてやるよりも自粛ムードを炎上商法でもやって客を入れる方が重要課題という判断もありなのかもしれない。
 やはり有能な経営者はタダで情報を恵んでくれたりはしないのかな・・・