弔事と慶事

 3/11で東日本大震災から5年になります。被災された方々へ心よりお見舞い申し上げるとともに、被災地における一日も早い復興を願っております。

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 というか、インフラの復興を担うべき業種にいたことがある関係上、「願う」などというような他人行儀な表現をせざるをえないことに非常に無力感を感じ、忸怩たる思いとしか言いようがないところである。
 で、好き勝手書いているこの領域で扱う内容としては不謹慎すぎるとは思うだが、とある人物の認識について興味深い記事があったので書いてみたいと思う。
 また、以下の内容は、東日本大震災によって亡くなられた方や復興のために尽力されている方を貶めたり軽んずる意図をもって記述するものではなく、また考え方も全てに適用できるものではないことを私自身理解した上であることをあらかじめ申し添える。

 元ネタは「誕生日祝えない?3月11日の卒業祝い給食賛否 教諭「給食は教育」(埼玉新聞オンライン版 3/10)」で、目を引きそうな箇所を切り取って煽情的に構成しているキャプション(記事の見出しという意味ではなくて、原義の「内容全体を捉えるためのもの」という定義として)のため、何の話なのか分からなくなってはいるが、まとめると、3/11という東日本大震災にかかわる弔事と埼玉県吉川市の中学校の卒業お祝い給食という慶事が同日であることに対して非常識だとする意見が出ていることに関する記事である。
 まず、古い人間からすると、慣習的に同レベルの弔事と慶事が重なる場合は、弔事を優先するのが社会的なマナーであるとされてきたと思う。
 ただし、弔事と慶事にもそのレベル差も当然存在するため、相応の臨機応変さで対処する必要はある。
 ただ、これは、あくまで慣習的なものであるため、価値観の多様化した現代においてこれらの考え方に縛られる必要もなく、かつ原則として他者を縛るものではあってはならないと考えられる。
 また、一方を選択するなどの行為に伴って当事者が何らかの不利益(例えば急な葬式で結婚式を辞退するような場合)が発生する場合は、双方が適切に歩み寄って解決するものであろうと思う。
 こういった意味で、当事者個人の弔事と慶事に対する意識の差によってどちらを選択するか、双方選択するか、いずれも選択しないかなどの方法は違って当然であろうし、その考え方に基づいた感想を述べることに何ら不思議はないように思う。
 しかしながら、記事内の教員による以下の発言がよく分からなかった。
『市内中学校の男性教諭は「給食も教育の一環。学校でやることと、誕生日などの個人でやることは違う。なぜ日程を変えられないのか。震災の日と卒業のお祝いの日と分けて物事を考えて良いのか」と問う。賛否両論の意見が出ていることには「おかしいと感じる人たちもいる。来年度以降は教育委員会も日程に配慮すると思う。それはそれで良かった」と話した。』
 教員っぽく冒頭に「教育」ということばを使いながら、この教員が何を「教育」する気なのか読むことができない。
 教育者としてではなく、一個人としての感想や主義を述べるのであれば問題ないように思えるが、まずそこが気にかかった。
 この教員の話の前に誕生日が3/11の自分の子供を祝えないといわれると嫌な気持ちになるという取材内容が挿入されているため、記者がこの内容をこの教員にぶつけた結果『学校でやることと、誕生日などの個人でやることは違う。』という内容になったと考えると、誕生日を祝うことは教育ではなく、学校の論理で行う何かだけが教育であると勘違いしている可能性も否定できない。
 また『震災の日と卒業のお祝いの日と分けて物事を考えて良いのか』についてはどういうことを意図しているか不明である。
 「震災の日」と「卒業のお祝いの日」を「分ける」行為と「分けない」行為が具体的に何を指しているのかによっていかようにも判断できるからである。
 個人的には、教育者としては、当事者個人の弔事と慶事に対する意識の差によって選択の違いが生まれることを認識させるとともに、それらの意識や違いを双方が適切に受容、調整する能力を身に付けさせなければならないと認識し教育を行わなければならないと考える。
 非常に好意的に取るとして、「震災の日」も「卒業のお祝いの日」も分ける分けないではなく、どちらも大事なことであると教えることの重要性を説くとした場合、今度は、『なぜ日程を変えられないのか。』に短絡的に繋がるのはそれはそれで問題であるように思う。
 どちらも大事だから日程をずらすという消極的な解決手法としての選択肢をとることが、義務教育を終えるレベルの判断力を有し、場合によってはすぐさま社会人として活躍することが求められる者に対して最も有益な手法であると教育者として胸を張って自画自賛を垂れた上で送り出すに値するものかと考えなければならないように思う。
 いずれにせよ、『給食も教育の一環。』と言いながらも、給食で何を教育しているのかよく分からないままである。
 教育を大上段に掲げながら、何を教育したいのか、何を教育で受け止めて欲しいのか何も持ち合わせていない者をこれまで多く見てきたが、「なぜ?」を投げかけると、答えの持ち合わせがないことにぶちきれるか、なぜとかどうこうではなく「今」が教育なんです!と製造計画もなしにラインがよくわからないがとりあえず動いているのを眺めることが自らの使命であるかのような人が教育現場にそれなりにいるのは残念なことだと思う。
 私自身、今回の件の直接的な当事者ではないが、三年生にとってできればまともな教員に当たって欲しいと願うかぎりである。