今週のお題「もしも魔法が使えたら」

 「魔法」ということばは、なんというか変なことばなんじゃないかな、と前々から思う。
 単語の構造自体が「魔」の「法」なわけで、「法」は仏教用語だと仏の教えということになるが、もっと前とかだと、いわゆる基準とかその基準に伴う各種状態や捉え方(たとえば手順とか基準を外れた場合の考え方、扱いなど)という意味であり、およそ「○○法」が法律名でない場合は、○○の体系だとかシステムだとかで置き換えることが可能なものである。
 では、「魔」ってなんなの?というと、多分真っ先に思い浮かぶのは、「悪魔」などのいわゆる西洋の神にあだなすデーモンなどの日本語訳みたいなものとして扱うものではないかと思う。
 また、「魔が差した」、「病魔」などといったようなよくない何か、悪いことの何かという意味に捉えどころのない曖昧模糊とした、転じて理解不能な、人智を越えた、畏れ多い領域のなどとという含意があるものとして扱ったり、最近ではあまり見ない(ことば狩りにあったのかも知れない)表現かも知れないが「痴漢魔」などといった、前のことばを強調し、しつこさや連続性、執着、悪質性を想起させるものだったりする。
 ちなみに、例外として挙げられるのは「断末魔」だったりするが、これは、「だんまつ」+「魔」ではない。
 意味自体が、何となく、今際の際というような境界面でのことを指すところから「断ち切れた末端」という時点での苦しみといったよくないこと、うれしくないこと、と解釈できなくはないのだが、元々は、サンスクリット語のマルマ(マルマンと説明していることの方が多い気がするが、断末魔という形の用例だとマルマチェダという発音になるので)に「末魔」という漢語を充てたのが移入されたもので、「末魔」を「断」つという構造である。
 で、「末魔」とは体にそれなりの数存在する急所のようなもので、それに触れると激しい苦痛とともに死に至ると当時考えられていたものの総称であり、ある意味秘孔とか直死の魔眼で見える線みたいなもんかと私は理解しているが、その表現が正しいかどうかは知らない。(ちゃんと勉強しなかったので)
 で、話を元に戻すとして、現在の意味とは別に「魔」という漢字がどのように成立したかというと、これもサンスクリット語のマーラに魔羅という漢語を充てたことに起因するといわれる。
 実際は、当時「魔」という漢字はなくて「摩」を充てていたそうなのだが、唐時代の偉い人が「麻」に「鬼」をくっつけて「摩」に似た「魔」という漢字を作ってしまったらしい。(この逸話は教えてもらった当時の記憶を頼りに書いたのだが、ググっても出て来ないので正しくないかもしれない)
 いずれにせよ、「魔」=マーラだとして、仏教用語として考えると、「魔」は悟りを開くのを妨げる煩悩の神の特性を抽象化したものであると捉えていいように思う。(実際のマーラはもっと大きい意味で漠然と死神みたいな意味なので正確にはイコールではないのだが)
 こういった経緯と現在の意味からすると、「魔法」とそれに関連する「魔術」や「魔具」といった使い方ぐらいしか、「魔」から「magic」を連想する用例はあまりないんじゃないんだろうかとか思う。
 ここまで書いておいて何だが、実のところ「魔法」ということばの成立経緯を知らない。
 とはいえ、中国語でも魔法は魔法なので、「魔」と同じように「魔法」も何らかの形で独立して移入されたものかもしれない。
 ただ、「魔」がどう変化してそうなったのかは分からないのだが。

 で、かたや英語の「magic」は、元々はゾロアスター教の賢者を意味する「マギ」から来ているといわれる。
 多分、某漫画もそういった地域性とか世界観が参考にされているんじゃないかなぁ、とか思う。
 英語は不得意なため、そもそも賢者から魔法という意味に変遷したかは多分聞いた端から抜けていったようで覚えてさえないのだが、基本的には、当時の賢者というのは、生きるために非常に重要な農業に大きく影響する気候や暦といった情報がそれなりの信憑性をもって推測できることがそう呼ばれるゆえんとして挙げられる。
 結局のところ、「magic」という現象が、あたかも人智を越え、限られた者だけが扱うことが可能な、原因は不明だが因果関係だけは存在するというように感じられたとしても、それは当事者やその周辺以外の者が見たときにそう感じられるだけで、知る者から適切に情報が与えられるなど条件を同じにしてやれば、多くの場合「トリック」といったレベルでその感覚は取り除かれてしまうものだといえる。
 とはいえ、逆に分かりさえしなければ、その現象から魔法が存在すると定義し、それが的確に否定できないとすることもできるわけで、例えば、ペストの流行と魔女狩りといった関係性を集団ヒステリー現象から紐解く際の考え方の1つとして扱われたりする。
 結局、「magic」というのは、他者が行使したものが自らにとって「magic」扱いになるのか、ある程度論理的に解釈できるものかという判断に基づいた結果による解釈の1つ、というように思え、それゆえ、自らが行使するとすれば、それはすでに自らが理解して行使していると捉えるべきだということから「magic」ではない、という考え方を私はしているんじゃないだろうか、と思う。

 で、だらだらと書いてみたが、私がガキのころ感じていたのは、前半でいうところの「魔」が「魔法」と表現した際に「悪」というイメージはふるい落とされてしまっているが、後半でいうところの「魔法」が行使される概念は、ガキゆえにそれを体系的に十分認知していたわけではないが、同様な自他の認知イメージを持っていたと思う。
 単純にいえば、

  私は魔法は使えない
    ↓
  それでも魔法があるなら使うのは私じゃない
    ↓
  私は常に魔法を行使される側である

という多分論理的には正しくない三段論法風なものが頭の中にあって、当事者意識が薄い分、主人公にさほどのめりこむこともないし、さらにはそのことがさほど苦にもならなくはあったが、「あなたの住む街へ行くかもしれない」と言っておきながら来ねぇじゃん!ということにかけてはよっぽど腹を立てていたりしたバカだった。

 やっと表題。
 「もしも魔法が使えたら」ということになるとすると、自身が「魔法」なるものが使えるということは、それは既に「魔法」ではないが別の“ことわり”が付加(もしくは変化、削除等)されている状態ということになる。
 そして、自らの認知の幅として変わってくるかもしれない(自ら以外の認知は自ら以上に曖昧であるため)が、同じ系として存在する領域、つまりは自ら以外の他者も同じ“ことわり”であるとするなら、自らが「魔法」ではないとした属性が多かれ少なかれ備わっていると考えてもいいように思う。
 例えば、朝起きた時点で、同じ系内では何ごともなく何ひとつそれらしいことが認知できなくても、他の系から見れば「魔法」が使えるようになっているように観測できるかもしれない、というだけの話なのだが、他の系から観測する立場になる可能性はないので、結局この考え方だと「魔法」が使えることは、それ自体が「魔法」でも何でもなく認知できないものになっていることになる。
 それでも、自らが「魔法」であると認知し続けることを可能とする何かが存在し、かつそれを行使できるのであるならば、まずは、それを認知できるようになりたい。
 ただ、既に同じ系の先の“ことわり”を破壊してしまうので、その系に留まれるかどうかは分からないけども。



 まぁ、なんだろ。
 どうせ未練たらたらなんだから、何かしたいというより一切合切何もなかったことにしてほしい気がする。