朝OK 夜OK


なくはない

 数日前に二重否定について書いたのだけども、「可能性がある」ということなんじゃない?と言われたので少し。
 というか、私が明らかに書き損じているわけだけども。
 全称性を否定した上で、その一致するレベルは問わない、ということばっかり書いてしまって、口述の場合ってのを除外した後、それに触れてなかった・・・・
 口述の場合、多段表現などのように複雑化することによってうやむやにするとかあるけども、個人的には二重否定を否定も肯定もしていない、逆に相手にとって都合のよい解釈として全肯定されている、否定される因子がないととられてもさほど問題はないと考えているときに使っていることが多い気がする。
 あまりほめられたものではない独特の配慮だと考えてはいるのだが、実質的に否定することになる相手にとって都合のよい解釈の間違いが誘発してしまうことを半ば期待している手法の一つだと自己弁護してみたりする。
 さらにいいわけを進めると、合意形成というものは常に均質であるわけではなく、さらにそれが均質に認知されていなければならないわけではないし、結果認知されるものでもない(これを言い始めるとGDとかミニマルな議論の場ではほぼ確実に破綻します。やめましょう)とか云々。
 で、この手法を文章にもちこんだ場合、文の前後を見返したり参照したりできるために機能しないように思われるが、以前書いたとおり、それなりの先入観で読み飛ばしてしまうと結果的に同様な機能が果たせてしまう。
 ある意味、ミスディレクションとして機能するのは、全肯定や全否定という立場においては、何らかの別の考え方が存在するといった「可能性」に気づいていないし、もし気づけるのであれば、その命題の論理性とは別の理由によって解をねじ曲げて示すのでないかぎり、機能するべき対象者ではないといえる。
 こういった状況下で「可能性」を明示しては、ミスディレクションとしての効果を減じることになりかねない。
 悪くいえば、嘘を重ねているわけだけども、、、、
 正直、可能性を指摘することも含めて否定するのって非常に心が重いので。
 自身の否定したがっている一面だけが心の中で広がるのが心底気持ち悪いので、何とかしてそれを打ち消そうとした歪曲表現だと誰もそんなことを知りゃあしない独りよがりなことを書いてみたりする。
 単に、ぶっちゃけ「可能性がある」という表現が数的に近い事象を伝達できているとしても、歪曲的に表現したいという意思表示としては正反対に位置すると思うので、個人的にはちょっと、、、というか、かなり厳しいきっつい表現だなぁ、とか思った次第。


 下世話な話、とある領域では、なくはないといった表現を「可能性がある」と言語の行使者がそうのたまっているらしいので、そうなんだと思います。
 そう感じ、そう考え、そう理解しながら読むべきではないかと。