朝OK 夜OK


何を言っているか分からない

 最近(かな?)では某漫才師のセリフとして有名な気はするんだけど、よく似た形式としてそれ以前から用いられてきた慣用句的な表現だと思う。
 このような慣用的表現は、説明するまでもなく単純な字面どおりの意味ではなくて、話し手と聞き手、もしくはその会話を聞いている第三者(例えばコントとかだと観客)のいずれかが一意の解を「分かっている」前提として成立する。
 「分かっている」という意味が何かといかどういうレベルのものを指すのかについては様々なのだが、それはそれで置いておくとして、仮に「分からない」と表現した時点で状況把握ができない不定な状態(例えば先の三者の構造であれば、第三者、あるいは第三者と話し手か聞き手の二者が分からないようなケース)だと、もはや慣用的表現ではなく、そもそも言語の構成要素のなにがしかが損なわれていて適切に言語行動が成立していない(厳密には独り言なども言語行動にあたるため一概にそうともいえないが、めんどいのでパス、少なくとも結果的に伝達機能は果たされていないというだけ)わけだろうし、もし構成要素が表面上揃っているかに見えたとしても、共通のコード(ここでは形式的な意味での文法規則にある程度従った文字の並びであるいわゆる「日本語」「○○語」などといったざっくりした表現をされるものとする)でやりとりをしているかに見えて、その実伝達機能が損なわれていることが非常に多いのが世の常であるところからすれば、外界から観測できる部分だけでなく外界から直接観測できないインタフェースより内側に目を向ける必要がある(これも結果的に構成要素のいずれかが損なわれていることに帰結できなくはないのだが)のかもしれない。
 で、簡単にいうと、意思伝達が成立していないという結果を生んでいるというだけのケース、ということである。
 あまりに古い話をたとえに持ってくるのもよくはないかもしれないが、バルバルと吠える意思疎通が不能な野人と蔑む上において言語の違いは大きな現実的障壁の1つとして成立したのだろうが、今やそういった垣根が極端に薄れた関係上、表面的なコードの一致もしくは相互変換が可能な状況下でいかにして意思伝達が成立しないか、またはさせないかといった点について高度化しているように思う。
 過去にもいろいろ書いたけれども、慣用的表現が成立していない(成立していると断定できない場合も含む)状況において、結局のところ「分からない」のは当人にとって事実「分からない」ことであったとして、その理由は何なのか、当人にとって「分かっている」にもかかわらずたばかっているのだとして、その理由は何なのかを考えなければならないのではないか、と個人的に考えたりはするのだが、感覚的に近年の傾向としてそれは限りなく瑣末なことだったり、そもそも「瑣」ですらなく存在自体が否定されているように感じたりはする。

 と、前置きをだらだら書いて、そのくだらない考えに至ったもとのネタは、Twitterでとりあげられた某若手政治家の発言に対する「分からない」だったりする。
 個人的に、この発言をニュースか何かで片手間に聞いたときには、かなり攻めた言い方(この件でいえば特に先輩議員に対して)をしてるなぁ、とかひやひやしたのだが、当然これには発言に主語が含まれていないので単なる私自身の受け取り方と解釈というだけの話ではある。
 政治的な主張や政策についてその支持・不支持については、公開を前提とした現場で絶対に触れたくないので、その発言内容云々はどうでもいいことではあるのだが、とある文章(ここでは発言を文章おこししたもの)の内容や考え方について是でも非でもなく「分からない」と表現するのは、第三者の私にとってみれば、レスポンスをした者の考え方を汲み取る上でなかなかすごいという表現をせざるを得ないというか、めでたく取り付く島もない。
 分析的に考えてしまうと、先述の場合分けと理由の考察という形になっていく(そして当然ながら結論は出ない)のだが、そもそもその存在すら認められないのであれば、「分からない」という表現は実のところON/OFFを明示しない別の慣用的表現だったりするのだろうかとか思ってみたりする。
 そう考えると、一時期はやった「深いね」とかに似た何か(「分からない」の方は「ない」という頻繁に使用される否定の音節が存在するため暗に否定的意味を含むのだろうけど)と理解するのが合理的なんだろうか、とか思ったりした。

 それにしても、書いている途中に「何を言っているか分からない」とかで検索をかけると言語における構成要素が存在する状況下でいかに意思伝達を適切に行わないかに関する技術が検索結果に並ぶ。
 というのはちょっと言い過ぎ(世間で騒がれる適切に行わない事例からすれば他にもっと直接的で適切な検索ワードがいくつも存在するし)で、行われない理由が解説されているわけだけども、それを逆転させれば非常に高い確率で伝達不能に陥る。
 無駄にそれなりの期間生きていると実際に伝達可能である状態というのは薄氷を踏むほどに安全性などなきに等しかったりするかなぁ、と思うものの、一方でその無駄な時間がそれらの恐怖を麻痺させているために考えを深めようとせず一定以上はうっちゃってしまう。(関係ないけど、一部ではこういった現象を底辺老人の達観という者もいたんだが、個人的には違うと思う、、、というか「達観」ってのもっといい比喩で使おうよ、とかそんな意味でだけど)
 ただ、やっぱり考えてしまうのは、分かっているのか分かっていないのかが分かりたかったりする、という無駄なもやもやをどうにかしたい、というところかもしれない。
 さらに言えば、それを解決する方法など現状では存在しないので無意味だということなわけだけども。
 ということで、いつもどおり書いてることが発散したので終わる。