とくに

 某巨大企業の不祥事っぽい何かに関して会見があったらしい。
 これだけ続くと、とくに何の感慨もわかないし、心を動かされたたところで自らが打てる手など極まれな場合を除き存在せず、嫌な気分が自らの腹の底にヘドロのように沈殿するだけであれば、精神衛生上不感症である方がマシとも言えなくはない。
 とりあえず、事案自体の感覚的な捉え方は別として、会見のプロセス的なものについて少し考えてみたい。
 注目点は
 ・経営者トップが出てこない
 ・原因調査はこれからと言いつつ慢性的な現場の作業過多を示す
の2つだろうか。
 前者は、まぁ、一応当事者の判断よりも情報を受け取る側の最大利益をとる形にもっていくのが危機管理の鉄則ということからすれば、それさえ覆せるほどの実にくだらない事案であると判断したと捉えられても不思議ではない。
 経済紙関連でもあまりにばかばかしすぎて指摘されることさえなかったが、卑近の例としてはタカタなどが挙げられるだろう。
 後者は、推測を含んだ中途半端な事項を提示することは、会見自体の信頼性を損ねるため、タブーとされている行為である。
 ただ、これに関しても、リスクマネジメントなど当たり前のように行っていると思われる超一流企業である(そもそも関連会社が危機管理ソリューションのコンサルティングとかやってるわけだし)ことからすれば、それなりの情報統制なり当事者が考える信頼性が維持できる、もしくは維持する手段を複数持つことを認知した上での示威的行為であると考えるべきだと思われる。
 また、「慢性的な現場の作業過多」を簡単に口にできることは、三流企業などからすれば、過去の大型訴訟との関連性を想起させられるがゆえに、少なからず言いよどんでしかるべきところを軽々とそれを飛び越えているだけに、超一流企業ならではの何か別のシステムに内在する行動規範でもあるのだろうなぁ、などと考えてしまう。

 現時点で、この企業の社訓のようなものとして未だに用いられているのか、すでに遺棄された(社訓に類するものはいきものです。)かはわからないが、故吉田社長の十則というものがある。(もしくはあった。以下同じ。)
 私が、氏の十則に触れたとき、大きな違和感を覚えたのを記憶している。
 それは、十則に倫理観(遵法思想など)と遂行に伴う責任に全く触れていないことであった。
 事実、十則自体が高度成長期の端緒に唱えられたことを考えれば、時代の変遷によって考え方も変わろうものだと考えてもいいかもしれない。
 氏の十則の解説したものをちゃんと読んだりしたわけではなく、かいつまんだだけの知識でしかないため、詳しくは理解できていないが、Wikiを見ると、別途「責任三カ条」というものが氏によって作成されていたようである。
 ただし、『現在は使われていない』とのことだが。
 で、十則で倫理観に言及されていないのは、個人的な想像なのだが、新しいこと、新しいもの、新しい文化、新しい仕組みなどを作り出していこうとする際において、それに伴う倫理などは、文化相対主義やら倫理相対主義やらという考え方で新たに定義されていくものだ、という開拓者精神にあふれた時代であったからこそ意味があったのではないかと思ったものである。
 氏が十則を策定した当時としては、自らが生み出したものが法令から適用外なり規格外となってしまうのであれば、それさえも動かすぐらいの気概をもって仕事にあたれということのようにもとれる。
 しかしながら、市場が成熟し、法令等も逐一見直され、規定される事項が増えてくれば、たとえ生み出した新しいものといえど、関連法令が存在しない状況を探すことは難しくなってくるわけで、そういった部分をいかように当該企業は捉えているのか興味はある。
 また、当該企業において、氏の薫陶をうけた者は、もはやごく少数であるに違いない。
 今回の当事者たちが氏の前で申し開きをどのようにするのか、それを考えながら行動し、また今回の件で言えば、ことばを選ぶべきなのではないのか、と思いはしたが、超一流企業であるがゆえにもはやそんな必要性はないのかもしれない。
 時は流れ、不祥事もその過ぎ行く時の中では勲章なのかもしれない。