生理的

 増田で「「生理的に無理」って・・・」という問題提起がなされていたので少し書いてみる。

 実際のところ、『誰が考えた』のかは知らない。
 ただ、聞いた話では、日本語における月経を生理と表現するより先に生理学といった内容に代表される生命現象のひとつもしくはその機構、物質的組成等を差す意味として移入された方が早かったという話は聞いたことがある。(真偽は確かめていないのでよく分からない。)
 同様に辞書的なレベルとして、「生理的」とは「生理学で扱う内容として表現すると云々」といった意味と、多分生理として扱う現象が自律神経系に分類される対象が多いため、中枢神経系のそれと対比する形で派生したと思われる脳が倫理的に考察するのではなく「本能的であるさま」から導いた結論を指すのだと思われる。
 さらに転じて、人類という種において生物学的に一方の性に発現する月経を意味する「生理」とかけて、導く結論が本能的であることに加えてその性特有とするという意味の付加もしくは使用範囲の限定が行われているように感じる。
 また、コメでも指摘されているが、単純に「病理ではない」ことを示す場合もなくはないが、それを理解できる者の多くは医療従事者だとは思われる。(高学歴であれば一般常識レベルかも知れないが私は該当しないのでよく分からない。)

 個人的に、『生理的に無理』という表現がなされた場合に、私は「本能的」といった人に備わる論理的思考を用いない結論の導出を「理」という「ことわり」として一般化し、正当化し、自己の優位性を保とうとする考え方には賛同できない立場である。
 増田のいう、『科学的に意味不明』というよりは、「先に道理が存在しないと明言しておきながら道理でもって「ない」と判断した」ということに文としての論理性を見出せないからである。
 実際、同じ意味で用いられる「生理的にない」とか「生理的嫌悪」といった表現であれば、すんなりと受け入れられるのだが。

 増田のいう、『科学的に意味不明』と考える理由は、先の「生理」を「生理学」という置き換えをしてしまった場合に起こる意味不明さなのではないかと思われる。
 実質的に、浅慮にもほどがある(そもそも「慮」さえ存在しない)結論に対し、さも科学的事象を想起させる単語を忍ばせることに憤りを感じるかも知れないが、それが無知無学であるがゆえの論理性を欠く重度な思考停止だと考えてしまうのは、精神衛生上あまりよろしくないのではとは思う。
 発言者が経験上、当該事案を受け入れるなり他律的に実行させられるなり他者から実行されるなりした場合に、想定される各種生理現象を肉体的に許容することできず、それに伴う防衛機能等が働くことで当該事案を排除するなり拒否するなり攻撃するなりすると導いたと考える方が、その表現に違和感を抱く者からすれば認知として建設的であるかもしれない。

 あと、コメにある『「物理的に無理」ってのが主に「物理的には可能だけど諸事情により無理」な時に使われ』るというのも、これはこれでややこしい表現ではある。
 先に書いた「無理」の意味として、筋道が通らず非論理的で道理にあわないさま、これから転じて、論理的に不可能であるさま、論理的に困難であるもしくは大きな障壁などが存在し実現できないさま、何らかの外圧などにより強いて行われた状態(ex.無理な力が加わる)、あと、無茶、無茶苦茶などから派生もしくは混同したと思われる、過度の(ex.無理難題を押し付ける)、否定に対して無謀なとか域に達していないとか身の程をわきまえないという含意を持つ状態(ex.まだお前には無理だ)などが挙げられる。
 しかしながら、感覚的には、単にその背景や論理性に無関係に当該事象を完全否定するために用いられていることが多いようには思う。
 その昔は、

上司:A。次はこれをやってくれ。
A :無理です。
上司:じゃあ、できるな。
A :???

という困難であることと不可能であることの隙間にある実現性を表現する冗談も成り立ってはいたのだが、最近ではそうもいかなくなったということだろうか。
 コメ主のいう『諸事情』は、この「隙間」に該当する認識のずれをどう扱うかという問題につながっているのではないかと思われる。
 個人的には、『物理的に無理』と表現する者の属性(物理学的素養と物理学的思考能力等)を見て判断するしかないと思ってしまうが、単純に不特定多数に発信するような場合においては、諸事情を含意するかどうかさえ判断しにくく、そういった要因から発生する齟齬を考慮すれば、あまり行儀のいい表現ではないと思う。

 その昔、統計用の調査データがサンプル不足のため分析に値する統計的な信頼性をもつ数値が得られない状態を「統計的に無理」と言った者がいたのだが、私は「???」となったのを思い出した。
 要はその一文だけで単純に前後を直結した形で論理的に理解するには無理がある(←ここでは困難である意)ということかもしれないし、またそういった問題が発生する可能性がある、もしくはその可能性を排除するべき場では使用を避けた方がいいのかもしれない。
 どちらかといえば、その背後の論理性を考慮する意味があまりない、例えば内部がブラックボックスかどうかは別にして統合的なシステムに対しそのフロントエンドを介して気まぐれな結果ではない入出力が行えるような状況を想定したうえでの表現の方が当り障りがないというか自然なのかもしれない。
 例えば、わたし的には、とか、ダイスケ的にも、とか。