恣意的の誤用は恣意的なのか

 増田ネタ。
 「こちら」が訂正記事で「こちら」が元記事。
 で、この手の話で必ず書いているのが、言語の正しさとは何なのだろう、ということである。
 頻繁に用いられてしまっている誤用を誤用なのでダメです、と単純に切り捨ててしまうことは、そのことばが成立したと思われるはるか昔の原義から遷移してきた派生的意味などもすべて遡って否定しなければならないことになりかねない。
 要は、言語は意志伝達のための道具であることから、何らかの形である程度のレベルで意図が伝達できればよいというのが正しいあり方として受け取ってもいいように思う。
 ただ、それはあくまで一側面であり、言語の専門的研究をなりわいとする者や絞られた対象における/への文書などにおいては現在進行形で流動的なことばを用いて受け取る側の一部が誤解を招くことがあらかじめ想定されるのであれば避ける必要も出てくるかもしれない。

 というくだらないのは、まぁ、置いておくとして、個人的に過去における原義から考えて誤用かそうでないかという話は別にして、「恣意」ということばは結構大雑把に扱っているような気がする。
 書き文字にする場合は推敲時にある程度考え直したりするのだが、会話レベルではかなり不用意に用いているように思う。
 ちなみに、「恣」という漢字は「次」と「心」に分解できるのだが、およそ「次」を用いた会意文字などを考えてもパターンとしてグダグダであるため、この漢字の意味を覚えるという意味では漢字の成り立ちを遡るのはあまり適切ではないかもしれない。
 要は「資」「盗」「姿」「瓷」(最近は磁が使われることが多いが。)などにおいて簡単な共通性を見出すのは難しいだろうということで。
 とはいえ、研究者はそうは言っていられないとは思うが。
 で、コメにもあるように、「恣意的」といった表現を試験問題の解答というレベルで覚える際には「恣」の訓読みである「ほしいまま」から連想した方が覚えやすいようには思う。
 私自身は、学校ではそうやって習ったように記憶しているが、まぁ、バカなので、必ずしもそういう意味で利用できていないかも知れないが。
 個人的に書き文字として「○○は恣意的であるといえる。」などと表現する場合、特に法的な表現としての作為、不作為の別を表すためには、先の誤用かどうか分からないといった伝達する者にとっての認識の違いから逆の意味を示す可能性があることから用いず、別のことばに置き換えるようにしている。
 また、同様に「恣意的に○○する。」という場合でも、積極的に行動を行うか否かを示す作為かどうかや意図的であるのかどうかなどが逆転して捉えられることで大きな問題を引き起こす場合は用いないように努めているつもりである。
 逆の立場として「恣意的」と表現されていた場合、その前後から、作為、不作為の別や意図的かそうでないか、感情として勝手気ままなものか、勝手気ままに他者から捉えられる行動(刹那的な回避行動を批判的に捉えていることが多いようにも感じるが)なのかなどを推測するしかない。
 加えて、先の記事には特に触れられてはいないが、口頭でのやり取りのなかで「しいてき」と用いられた場合、必ずしも「しい」=「恣意」でさえないのではないか?と思うこともある。
 あくまで推測ではあるのだが、「示威」と変換すれば意味が通じることもこれまでには多かった。
 実際のところ、偏った意見や考え方を誇示し、さもそれを相手に押し付けんばかりの行為であると表現したいとするならば、その行為がネガティブな感覚を乗せた作為(法的な意味の方)であると捉えることで、現象としては「恣意」に近づいていると考えても良さそうな気はする。
 で、さきにツッコミがあることを想定してこれも想像ではあるが言い訳しておくと、口頭で「示威行為」を一般的な「示威」の読みとされる「じい」と読むと語弊があるため、「しいこうい」と意識的に読みを選択しているのではないのだろうか、などと考えていたりはする。(ニュースなどでは「しい」としゃべっている気がするのだがどうなんだろう。)
 ここまでいくと意味の流動性ではなく同じ読みの別の単語を混同したということにもなるのだが、大くくりでいえば、こういった混同からことばの意味が遷移することもなくはないため、そうならそれでもいいかなどと個人的には思ってしまう。
 記事内で参照している飯間氏のTweetに『「意図的」に置き換えられる、と言っているのは俗説のほうで、私はそうは思いません。あくまで、「勝手気まま」で解釈できると考えます。』とあるのだが、結局のところ、表現者が辞書的な意味と違わない意図をもって「恣意的」と表現したかどうかすでに分からない関係上、もはや前後の文脈から類推するよりほかない、としか言いようがないかもしれない。
 論文等で査読する立場などであった場合は、真意を他の表現で確かめた上で判断し、場合によっては修正をお願いしなければならないかも知れないが。
 繰り返しになるが、結局のところ誤用が誤用として認識できているうちはまだマシだが、誤用なのかどうかが分からないとか、相手に誤用の意味として認知されるかどうか分からなくなってくれば、もはや正しい正しくないと考察したとしても機能を満たすかどうかという観点において意味をなさないように思う。
 実際のところ、訂正記事において元記事が誤りだと宣言してはいるが、例えば元記事の『恣意的な編集にはうんざり』という表現が、表現者にとって「勝手きままな」などといった含意は毛頭なく、例えば単に「悪意ある」という意味が主体を成している意志のもとで用いたのならば、それが「意図的」と読み替えることで意味が通じるために辞書的な意味で文章が成立可能であると考えたとしても、誤用の可能性は残されたままであろう。
 ちなみに、新聞社がリリースする記事は、最近はどうなのか情報がないので何ともいえないが、昔は校正支援システムなどというもので先に自動校正をかける関係上、明らかに辞書的な意味として文章が成立しない箇所や再確認を要する箇所を指摘してくれていたと聞いている。
 そういう意味では、新聞などの記事の場合は、原義に近い「勝手気ままな」とか「場当たり的な」とかに置き換えることで意味を汲むことが可能であろう。
 最近のWeb上での記事などはかなりひどいものも出回っているため、果たして機能しているのか、そもそもそんなものはうっちゃってしまって校閲者もざんばらに切り倒した結果ぐだぐだなのかよく分からないが。(まぁ、単純なコピペミスなんてのが平気で掲載される関係上、そういうことなのかも知れないが。)
 飯間氏のTweetにも『悪意を持って勝手気ままに解釈する場合も、元の意味を継承していると言えます。』とあるように、「ランダムに選択すること」や「勝手気ままであること」、「場当たり的であること」と認識される行為の行為者において、その結果を予見した上でのものであるかどうか(作為的、意識的、意図的な部分)などが一概に限定されることばではないといえる。
 およそ、報道機関における記事において、現象のみを表記した記事を除けば、どちらかといえば批判的な着眼点から作成されていることが多いことから、「恣意的な」という表現に出くわしてもネガティブなイメージであるといった感覚のみで読み進めてもある程度本意は汲むことができるわけではあるが、一応辞書的な意味として当てはめて理解するとしても問題はない表現にはなっているようには思う。
 多分、増田はこういった部分に関して訂正しているものだと推測する。
 個人的には、矢田部先生の「恣意的な直觀」は増田が後に訂正している内容を用いなくても元記事で増田が示した『場当たり的な直感』でも『おかしい』ことはなく、十分に意味がつながるとは思う。
 というのも、その直後に『類型的了解』が必要であると説いているわけであるから、『明らかに「作為的な」という意味で使っています』と理解するのは問題があり、主観や偏った考え方などを排除し客観的分析に耐え得る体系を持たせるためのプロセスを語っていることから、作為的(法的な意味ではない方)な現状把握を行うシステムにそもそも類型化の概念をもちこむ意味があるようには思えないからである。
 多分、こういう部分は、増田が後に訂正した記事の『記事を盛りたかった、記事を書くにあたって邪魔だった』という内容に該当するのかもしれないが、若干不用意に噛み付きすぎではなかろうかという気もしなくはない。
 とりあえずおちつけ、と。



 で。
 これらとは別なのだが、訂正記事のタイトルが『「恣意的の誤用」』とあるのには参ってしまった。
 先に示したように「恣意」がどのように解釈されるか、どのような意思をもって使用しているか分かりづらいところに「恣意的な誤用」のミスタイプなのか「恣意的な云々」という表現における誤用なのか分からないという理解のためのパターンが増えたため、私のようなバカには負荷が高すぎた。
 それも恣意的なのだろうか。
 というわけで、この記事のタイトルも「」を抜いてみた。
 見事に意味が分からない。