三者の関係

 非常に古いネタで、ググってみると元はNHKの番組内で紹介されたものらしいものが今頃になって再度引っ張り出されていたので、せっかくなので当時の気持ちとかを書き残してみる。
 そのネタの質問と解答は以下のとおり。

恵さんの家におじさんが遊びに来ました。
恵さんはお母さんに手伝ってもらって、チーズケーキを作りました。
恵さんは食卓で待つおじさんに言いました。「おじさんのためにケーキを作っているの」。
おじさんは「ケーキは大好きだよ。チーズが入っているのはダメだけどね」と言いました。
ここで質問です。気まずいことを言ったのは誰ですか?
また、なぜ気まずいのでしょうか?

解答:
気まずいことを言ったのは「おじさん」です。その理由は「恵さんやお母さんの気持ちを傷つけてしまうから」です。
 ASDの人は、最初の質問で「おじさん」と答えられない。誰も気まずいことを言っていないと答える。つまり、「チーズは苦手」と恵さんに告げることが気まずいとは感じないのです。恵さんの気持ちに立つことができないからです。

 で、よく似た構造の小児用のテストで誤信念課題の例があるが、本質的な理論と解釈とは別にして、およそ心理学上正答とされる解答を導くためのプロセスとして鍵になるのは、Aの行動とBの行動の双方を知るCがBの行動を知らないAの行動を予測できるか、という部分において、Cが観測する上で導くことができる解答とAが持つ情報が何であってその情報のみでAが行動するとした場合の解答に差異があることがあること、およびそれが認知できることを機能せしめるサブプロセスが存在するかどうか、ということになるのだと思われる。
 あまり関連がないかもしれないが、私はガキのころ、TV番組などでBの姦計を余すところなく見せられたあげく、Aがそれに気付かずに罠に近づいてしまうのを双方の情報を与えられるCの立場として視聴するのが嫌でしょうがなかった。
 というのも、例えば、Aに感情移入しようにもCにとってAとの情報差は計り知れず、感情や行動の同一性をストーリー中で共感したり一体感を味わうことは不可能に近いし、ましてやBは、主に悪役として番組最後には懲らしめられて終了することがCにとって予想済であるため、いかなる素晴らしい姦計であろうと愚策化する無能者となるのであれば、はなっから感情移入する元気もなかったりした。
 基本的にAでもBでもない意図的に乖離を生むように仕向けられたCであることが嫌だった、ということかもしれない。
 多分、こういうのも最近は何でも障害扱いが可能になってきているので別の何かかも知れないが、それはそれで先に進む。
 で、先の質問をこの構図に当てはめてみると、恵=A、おじさん=B、読者である私=C、となると思われる。
 また、CにとってBの持たないAの情報を持っている(ここではAの持たないBの情報の有無を確定できない)という形態となる。
 誤信念課題として先のサブプロセスの有無を確認できる形に成立させようとすると、Aの情報を持ち得ない状態のBの行動とCのすべての情報を持ち得た状況下を仮定した場合の最適な判断に基づく行動との乖離を気まずい構造の認知であると呼ぶのであれば、解答は正しい、ということになるのだと思われる。
 ただ、自らが行動する段において、その判断の源となる情報は全知全能でないがゆえに常に不十分な中で判断することを強いられることから考えれば、それだけを自らの行動規範に生かそうとするなら、自らの行動の志向はすべからく気まずい、ということになるわけで、その考え方の有無だけが行動判断の重要な要素になり得るわけではなく、実行動につながる考察や規範、判断などに様々な要因が影響、補完、抑制などといった様々な形で機能していると思えたりする。
 また、持ち得る情報のAB双方の相互間の差異を考えるとした場合、後出しされたBの情報をAが知らなかったという条件を事前に投入すると、A、Bを入れ替えただけで、Bが嫌いなものを『おじさんのために』と提供するAも相当気まずいことにはなる。
 Cが先に知り得なかったためにAの発言の時点でCは気まずくはないが、会話が進んでしまえば、結局気まずいことに変わりはなく、現実には、登場人物はそのなりで人として存在し続け、ちゃんちゃんで消滅しないことからすれば、新たに情報が提示された時点で遡って自らの行動を考察し直すプロセスを要することからすれば、気まずいと考えることがあたらないわけではない。
 もし、これが当たらないとするなら、いわゆる計画、行動、実施に伴う結果の検証自体を存在ごと否定することにもつながると思われる。
 あと、ググってみるとちらほら触れられている『作りました』と過去形でありながら、おじさんを待たせてまで『作っている』という現在進行形に変化しているとことから、その行間に作り直しているという何らかの前提があるのではないか?という質問文の不親切さ、練れてなさに起因して、同様にチーズケーキを現在進行形で作り直しているのなら、おじさんはケーキかどうかまでは分からなくとも臭いで材料にチーズを用いているかどうかぐらい分かるはずだから配慮しろとか、作り直したのは母がおじさんのダメな食材に気づいて作り直したわけで、作リ直したケーキはチーズケーキじゃないケーキだから誰も悪くないし気まずくもないとか、チーズケーキというと冷製かベイクドを思い浮かべるが、基本的に作りたてを食べるものじゃない(基本的に寝かせる時間が必要という意味)し、ケーキが大好きなグルメ者のおじさんからすればそんなのは遠慮したいという教育的指導としてあるべきだとか、いやチーズタルトっぽいものなら寝かせなくてもいいんじゃないかとか、いわゆるABCのいずれもが与えられていない情報が存在することを派生的に考えれば答えはどんどん変化するわけだし、質問内容が本来あるべき構造という点から考えてかなり問題があるような気がする。
 で、そういった意味も含めてなのだが、私がこのネタを読んだ時に考えたのは、『気まずいことを言ったのは誰ですか?』というのが、だれが一番そうなのか?という意味で言えば、『ここで質問です。』などと大上段にいけしゃあしゃあと言ってのける質問者、てめえが一番気まずいだろ!みんな気まずい思いをしているのにてめえが一番失礼やわ、と思ったバカなので、まぁ、ダメな部類なんだと思う。
 で、冷静にダメ解答を同じ形式で書いてみると、

 気まずいことを言ったのは「質問者」です。その理由は、「登場人物全員(さらには読者も含む)が気まずい思いを抱えながらそれらを受容し波風を立てないように触れないでおこうと大人の配慮をしようとする矢先、一方的にそれを開示させる、もしくは無配慮に他人の内面に土足で踏み込むことを得意顔で行動することで、よりいっそう気まずさを増幅させているから」です。
 つまり、質問者は「気まずさ」を質問事項に挙げながら、その行為が気まずいとは感じていないのです。登場人物の気持ち、読者の気持ちに立つことができないからです。
 ただし、質問者がそれを理解した上で読者まで巻き込んで嫌な気持ちにさせることが目的であれば、それはそれで適切にその意図が機能したことにはなります。

 といったところだろうか。
 というか、なんだろう。
 なぜダメなのか、ってのは放っといても知らず知らずに勝手に考えてしまっていたりするので、いい加減飽き飽きしてるわけで、あらためて真剣になぜダメなのかという課題に取り組むのは、正直苦行だったりする。(今回書き残すのもテンションだだ下がりだったし)
 もういっそ、「この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。」ってことで、よって架空であるがゆえに、そこには実在する「気まずさ」も存在しない、ってのだとダメなんかな。
 そして、気まずいのは私だけっていう。