釣られなければならない食い物ネタ

 先に書きかけの記事があるのですが、とりあえず、釣られなければならない食い物ネタだと思ったので、書いてみます。(元ネタはこちら

 えーと、嫌いな食べ物はあるでしょうか?(同じ始め方をしてみた。)
 昔(大学生のころ)は、そう聞かれると、「ないですよ〜。」といつも軽く答えていたところ、ある人に「ちっ、つまんねーヤツ、」と本人は聞こえないようにつぶやいたつもりだろうことが分かって以降、だめだ!嫌いな食べ物1つぐらいないとキャラ立ちしてないんだ。と思うようになりました。(そもそもキャラ立ちしなきゃならないわけでもないですが。)
 さすがにうそをつくのは得意じゃないので、なにか嫌いな食べ物がないか思いを巡らせたところ、「柚入り豆腐」にたどり着きました。
 それ以降は、嫌いな食べ物として柚入り豆腐を挙げることにしています。
 ちなみに、柚も豆腐も小さい頃から好きです。これが合体するとなぜ問題があるのか未だに謎ですが、こういうのは謎なままの方がいい気もしています。

 では、嫌いな食べ物の嫌いなレベルはどの程度でしょうか?
 ・髪をつかまれて口にねじ込まれても嘔吐反射か気管に入るだけで食道に進まない。
 ・口にねじ込まれるとしかたなく食道は通る。(で後から吐く)
 ・殴られるなどの身体的な苦痛を与えられると自ら食べる。
 ・社会的な立場(接待や親子間など)で仕方なく食べる。
 ・何品か出てくれば、できうる限り残したい。
 ・それしかなければ、しかなく食べるかもしれない。
 ・何品か並べられると、選択肢として落ちる。
 など、いろいろなレベルがあるように思います。
 知り合いの中では、社会人になった状態では、「食え!」と言われれば、仕方なく食べるレベルの人が多いです。ただし、当然、例外もあります。
 ちなみに、私の嫌いな食べ物は、子供の頃以降、見かけたことも食べたことがないので変化は分からないのですが、その当時は、椅子に縛り付けられて、親に頭を固定されて口に詰め込まれたりしましたが、残念ながら胃に届くことはありませんでした。
 あと、こんなところで前提条件を言うのもなんなのですが、当人にとってのアレルギー食品は含みません。
 これは、好き嫌い云々の軸で評価されるものではなく別のものだと考えた方が混乱しなくて済むと考えます。(中には脊髄反射的に混同する人もいるので念のため。)
 脱線しますが、知人に2人食品アレルギーの人がいます。青魚と酵母というあまりメジャー(食品衛生法以下の政令には未記載)ではない食品アレルギーの持ち主で、双方救急車を呼ぶようなレベルではなく激しく発疹が出る程度なのですが、これが双方アレルギーを起こす食品が大好きだったりします。前者は寿司好きなのですが、昔ながらのカウンター形式の寿司屋で食べていると訝しがられるため、持ち帰りで寿司を買って、うちにおみやげとして持ってくるのはいいのですが、自分でほとんど食べてしまうという謎な親戚のおっちゃんでした。
 後者は、ビール好きなのですが、飲み屋でビールを飲むとこれまた訝しがられるため、宅飲みしか不可能という人でした。
 元に戻します。

 先ほどの嫌いなレベルは摂食に対してのレベルですが、今度は、その食品に対してどう思っているのか?です。
 決め付けはよくないのを承知でですが、『きのこ(主にしいたけ、しめじ。えのきと舞茸はギリいける)』という時点でいろいろなきのこ類を食べて試しているところからするに『「は?こ●すぞ」』と言いつつ、実は結構ツンデレなのかと疑ってしまいました。
 多分、エリンギとかホンシメジとか雪姫茸とかトリュフとか言っても頭の中でイメージできてしまうかもしれません。
 で、という話を振ったのは、先の「例外」に繋がります。
 知人の幾人かは、嫌いな食べ物の話に触れることが禁忌になるようなレベルで、一端その話になろうものなら、その食品の垂直方向(製造者から調理者、廃棄に至るまで)全否定で所かまわずまくし立てるという状況になったりします。
 某料理漫画のように皿を投げつけたりすると噂される人もいたのですが、私は恐ろしくて少人数でその人と一緒に食事に行くのを徹底して避けていたりしました。
 さすがにここまで来ると過剰防衛で、かなり引く、というか周囲に迷惑がかかりすぎて、ただの小児レベルのわがままになってしまいかねません。
 一事が万事ではありませんが、その中の1人における古くからの友人に教えてもらったのですが、小さい頃にむりやりそれを食べさせられて当時からその食べ物に憎悪剥き出しだったらしいです。
 何事もやりすぎはよくないのかもしれません。
 いずれにせよ、摂食そのものの障壁云々ではなく、嫌いな食べ物に対する脊髄反射が先に来ることで、論点が食べること以外の別の何かに置き換わることで、空疎な発言になるということが認知できるかどうかでしょうか。
 著者のように食べることにおける嫌いな食べ物の位置付けとその問題を真摯に表現できることは素晴らしいことだと思います。
 また、嫌いな食べ物を先の製造者、生産者の人格否定に直結させる人はいろんな環境で経験したので、様々な層で散在するのではないかと思います。
 著者の『作った人とかは「そんなものも食べれねーのかよ、はあ」って顔する』という部分は、そういうショートサーキットを起こした人を見た経験から派生しうるものなのかなぁと思ったりしました。単に家族や親類が生産者で自家消費せざるをえない環境だった可能性も否定できませんが・・・。

 では、嫌いな食べ物をどう避けるか?に移ります。
 現実的な意味で、私自身嫌いなものがほぼないので、少人数で外食する場合は、各人の嫌いな食べ物を把握する側に立つことが多かったように思います。
 著者の言うとおり楽しく食事することが重要であるので、各人が楽しくあるためには、各人に嫌いな食べ物が振舞われることではないと言っていいと思います。
 提供料理の内容変更が困難なファストフードやチェーン系の飲み屋などでは、セットやコースではなく単品注文にするとか、それなりの専門店になると嫌いな食べ物や食べられない食べ物(いわゆるアレルギー食品など)を事前に知らせておくことも可能なことが多いです。不特定多数の人に好みをそれなりに包含する形で画一的な食事を提供することから来店していただいた特定の人に対応した食事を提供するまでの違いはあるにせよ、まともな供給者であるかぎり、客に楽しく食事をしてもらうことが第一義であるはずだと思われます。
 接待とかの場合は嫌いな食べ物が分からないという意味で結構面倒だったりしますが、こういうのは、もっと場数を踏んだ方のほうがまともなことが書いていそうなのでそちらに譲ります。
 出来合いのもの(店で売られている惣菜など)で入っている場合は著者の中華まんの選択肢の絞り方と同様に安全側をみて購入せざるをえないのが現実だといえます。
 出来合いのものに関して原材料の表示義務があったりなかったり(詳しい理由は省きますが)する関係以上、アレルギーの方も同様に食品選択の幅を狭めざるをえない現状は悲しいことだと考えますが、それなりに供給者寄りに法整備がされがちなため、そういう部分には手がつけられていない状態だと感じます。今のところは、それなりに自衛するしかないような気がします。

 逆に、相手の嫌いな食べ物にどう対応するのか?です。
 先にも書きましたが、○○に俺の嫌いな食べ物が入っている、という話が、キャラ立ちの面でもっともキャッチーで自分の弱い一面を垣間見せる上で、結構な武器になっている気がします。行き過ぎると過剰反応であり、自意識過剰ととられると思いますが。
 ただ、このネタを披露するには、嫌いな食べ物が出てこないことには、何言ってんだコイツ。となりかねませんし、いずれにせよ、一発ネタなので、長い付き合いの場合は、相手の考え方や嫌いな度合いによって対応を変えなければならないと考えています。
 例えば、俺が食うんだからお前が嫌いでもいいじゃねぇかというスタンスが嫌いな人もいるかもしれないですし、自分で頼んでおいて、私これダメ、で済ませることに冷める人もいるかもしれません。
 当然のことながら、それ相応の歩みよりは必要ではないかと考えます。
 ただ、家族としての対応としては、食事療法として嫌いでも食べなければならない場合を除き(普通は代替があり、まずそんな状況はありえない。)、30を過ぎた味覚形成期を少なくとも確実に外れている者に対してごまかして食べさせようとする行為は、単なる嫌がらせに過ぎないと私は思います。
 ネタ的にいじるレベルならまだしも、変な信念をふりかざすのなら根本的に考え直すべきではないかなと感じます。
 出来合いのものの場合は、何が入っているか分からない(原材料の表示義務がない)実情を考慮して、購入後に周囲の人が毒見(当該のブツが含まれているかいないかを確認する行為)するなどの配慮が望まれると個人的には思っている(実際、できうる限り私はそれを実践している)ので、それの反対の方向を周囲の人が志向するのはかなり異常な状況(著者の言う自分の立場になって考えていない状態)だと思います。
 「甘え」の一言で終わらせてしまう人もいますが、自分の知る限り、おまえだって給食居残り(食べ終わらないので昼休みまで居残りさせられること)させられてたじゃん。と内心思うことが多いです。
 多分、自身がそれを外圧によるものか自分で努力したのかは分かりませんが、それなりに克服した実績と比較してそういう言葉が出るのかもしれませんが、小児期ならまだしも、成人以降では、現状の解決という意味において役に立たないゴミ発言と捉えられることが多いように思います。(周囲がそういうことを言う人ばっかりなら、それはそれでそのコミュニティ内では優良な考え方として成立するのかもしれませんが。)
 昔からの良家のぼっちゃまや嬢さまなんかだと、経験上、嫌いなものを率先してひけらかすことは少ない(あまり行儀のよい行為ではないらしい)ように思えますが、詳しく聞くと、これもあまり率先してしゃべりたくはない恥ずかしい行為のようでしたが、一般の子供と同じようにそれなりに矯正させられているようでした。
 理由としては、フォーマルな席で残すような行為は自身(および自身の関係者)と相手(およびその背後)と店(料理人など)に対してマイナスの事象しか生まないことを幼少期から理解させられているからのようです。とはいえ、どうしても無理な食品の場合は、双方に事前連絡、調整するこで、その席をつつがなく終えることが礼儀といえるようです。
 なにも、このようなところにベンチマーキングの優良事例として設定する必要はないとは思いますが、少しぐらいの奥ゆかしさとして参考にしてみてもいいのではないかと思います。

 最後に、嫌いな食べ物とどう付き合うか?です。
 個人的には、世界有数の多種の食材が手に入る国である関係上、生命を維持する上で嫌いな食べ物の代替は多数存在すると考えられる(穀物系のような主食に関わるものや多くの品目を包括するような場合は除く)ので、当人が嫌いな食べ物があることを自己欺瞞と根拠のない万能感に繋げないのであれば、周囲がサポートしてしかるべきと考えます。
 また、何かのきっかけで克服できてしまう場合もないわけではないです。例えば、コメ欄にもあるように、製造直売飲食系で高級なものを食べるとすんなり食べれてしまうことが大人の場合は多いようです。子供の場合は、しばらく(半年とか2、3年とか)の間全く食べないと理由は不明ですが食べられるようになったりすることもあります。
 私の場合は、幼少期ジャガイモの煮物でソラニンアルカロイド中毒を起こして痙攣するほどひどい状況になったトラウマ(それでも病院には行かなかったが、今思えばよく生きてたものだと思う。)で数年丸い形のままのジャガイモが食べられない時期がありましたが、何時しか食べられるようになったりしました。
 それ以外にも生理学的な根拠はない(統計上はあるかもしれない)ですが、偏食矯正のための団体組織もあるようです。小児期におけるかなり極端な偏食まで行ってしまうとまた別のさまざまな要因を考慮するなど必要になったりしますが、それは本筋から外れるので置いておきます。
 味覚に関しては、生理学的な機序が明確になっていない(少しずつは解明されつつあるようですが)ため、裏づけのない状態ではあるのでしょうが、小児期に形成される味覚のうち、酸味、苦味に関しては、本能的に経口不可(いわゆる毒物)として認識するようにできている(吐き出すなどの反射作用で摂食しえないようになっている)のですが、その後の社会的行動のなかで摂食可能なものを認知、識別し、選択的に摂食するようになるという仮説による論調が多いように思います。例えば、小児期の食事のおてつだいによる偏食の改善などは、上の仮説から派生したものと言えるかもしれません。
 翻って、大人の場合、そういう時期は過ぎているわけだし、片手で足りるほどのピンポイントな嫌いな食べ物は、小児期に摂食可能なものを認別できるようになる成果が100点満点中99.98点とかのレベルなので、何も問題がないように思います。
 本人の小ネタにする程度の軽い気持ちと周囲のそれをサポートし見守るおおらかな気持ちが、例え嫌いな食べ物を克服できなくても全体的にうまくやりくりしていくことに繋がるのではないかと思います。
 自己の嫌いな食べ物の現状と子供に対するその言動の不一致ですが、これは本人の根幹になる行動論理に繋がるものなので一概には言えないです。
 子供の年齢や偏食のレベル(例えば、とある給食を想定した時に常に半分以上手をつけられないとか週1ぐらいの頻度で食べられないものが出てくるとか)にもよるとは思いますが、いずれにせよ、親の焦りが子供に伝わり、子供が現状の全責任を負うかのような感覚に陥る状況は避けるべきではないかと考えています。
 偏食のレベルが低い(例えば、にんじんやピーマンなどといった特定の種類だけが嫌い)場合は、例えば、前出のおてつだいなどの体験型の食育を通じて、食事時にのみ対面して一方的に嫌いな食べ物について語ること以外の機会を増やすことが、双方の精神的負担が軽減されますし、摂食できるように説得することで、本人の意思で経口しようと努力する行為そのものをほめるべきであり、常日頃から食べないことによる罰を設けることは、食べる物の選択肢が格段に少なかった時代ではなくなっている以上、あまり有効に機能するようには思えません。

 あと、少し補足。
 『細切れにすればOKとか思っている』という部分なのですが、未だに調理者側の独り善がりが続いていると思うと悲しくなります。
 もともと細切れにすることは当人が自ら嫌いな食べ物を克服する手段の選択肢の一つとなることを目的として行うことであり、劣悪な食材でもぐちゃぐちゃに混ぜればOKというような某社の食品偽装の精神と変わらないようなものではありません。
 本人に分からないようにして食べさせることで嫌いな食べ物が克服できるのなら、嫌いな食べ物がある人は極端に少ないでしょうし、オブラートで包んで服用するとかエキスを静脈注射することで嫌いな食べ物がなくなりそうなものです。(ただし、1、2歳の時期は諸説紛々であるため分からないです。)
 ただ、味覚に関して生理学的な機序が不明な点が多いため、これが解明されれば、薬剤等で嫌いな食べ物が克服できる時代がくるかもしれません。
 あと、ミジンコクラスになっても嫌いな食べ物は嫌いな人には分かるらしいですよ。しそ葉が嫌いな人は、乾燥しそ葉をミルで引いた粉末でも分かるみたいなので。
 いずれにせよ、当人にとっての自ら嫌いな食べ物を克服する手段になりえないなら本人の嫌いな食べ物への感情は悪化するだけで建設的解決の一つにさえならないと思います。

 『しいたけよけると作った人とかは「そんなものも食べれねーのかよ、はあ」って顔するでしょ。せっかく作った的な。』という部分。
 私も元農家で周囲で非農家など数えるほどしかいない状態だったのですが、「そんなものも食べれないのか」と考える農家はほとんどいなかったように思います。
 農家も単なる一事業主でただの製造業に過ぎません。自らが産出した製品が嫌われて売れないことを自分の製品を買わない客を糞バカ呼ばわりして発散している状態では、死を待つのみです。
 ただし、家族内で当該事業を行っている場合は、公私(農業事業と個人)混同になるのですが、食って生産調整等に貢献して親を助けろという考え方もあるかもしれません。

 肉まんのはなし。
 うーん、最近はしいたけとか野菜が入っているのか・・・・。
 なんか何肉かよく分からない肉汁の少ないミンチ肉にたまねぎとなんらかの香辛料、増粘剤ぐらいしか入っていない肉まんしか食べたことないや。
 豊かになることはこんな弊害もあるのだなと低みの見物。



 それにしても、大きく育つオチに○んこをもってくるとは、読中に先読みした私の考えを見透かされたみたいで赤面しました。んー、食べてみたらもしかしたら大きくなるかも。マッシュルームとかまいたけとか亜鉛多いし、ってマジレスしてみる。