もったいないおばけなんてないさ

 いつもの増田ネタに便乗してみる。
 今回は、「メシを残したって別にいいだろ」。

 私はというと、古い人間なので「残さない派」ではあるのだろうが、それは自分に対してだけである。
 というか、最近は、自分自身にさえそう言えなくなってきたが。

 自身がそういう傾向を持つのは、単に年齢というよりは、幼少期の食に対する立ち位置があるのだと思う。
 私の場合は、まず、第一に条件反射的に「残さない」ような行為を行えるように身体的ダメージを与え続けられることでそれを達成してきた関係上、論理とは無関係の領域にあるといえる。
 およそ、嫌いなものだと体を固定されて口の中に手のひらで押し込まれる世界なので、ある意味しょうがない。
 奴隷から開放されても心は奴隷のまま、とはよく言ったものだ。
 また、これに付随して、自らの好みのものが偶然にも食卓に出された場合、いつその食事にありつけるか分からないために、無理やりにでも食べてしまう癖がついてしまった。

 今回は、全くコメを読まずに書こうと決めたので、ほぼすべて自分がたりになるはずだが、昨今の「残さない」という理由が「もったいない」と表現されるレベルというのは、多分、私には当てはまらないだろう。
 実をいうと、「損をした」とは思うかも知れないが、「もったいない」とは、そう思え、と強要されていたころからすれば、ほとんど感じなくなったような気はする。
 そういった意味で、自分以外の者から『メシを残したって別にいいだろ』と言われれば、私は「別にいいんでない?」と返しそうである。
 要は論理的に万人に適用される行動規約ではなく、単に私自身に内在し、もはや変更するのも面倒で放置されている行動様式に過ぎない、という認識である。
 よって、増田から「おまえもメシを残せ」と言われれば、丁重にお断りする気がする。



 では、とりあえず、記事本文行ってみる。
 まず、『家族や恋人から出される「無償のメシ」はわかるにしても、「外食」ではいくらメシを残そうがとやかく言われる筋合いは無くないか?』。
 実をいうと、増田は、タイトルで『メシを残したって別にいいだろ』と言いつつ、すべてのメシ、多分、食事や食品に類するものを残していいとはしていない。
 思考自体の良し悪しとは関係なく、パーソナリティの統一性や安定性を考えれば、気分的にその対応がその時々で変わるのではなく、一定の基準が設けられている方が社会適合性が高いことを考えると、メシの提供者というメシを食う者の行為の直接的な認知が複数にわたる当事者にとってどうあるべきか、という基準から自らの行動規範が形作られていることは非常にすばらしいことだと私は思う。



 次に各項目、1つめ。
 『「食事を満足に食べられないアフリカの子供達だっているんだぞ!」』
 個人的には、分からなくはないが、某利権の関連人物によって意味を持たない、もしくは利権そのものを表現するネガティブな意味を持つようになった気がして使いたくはないし、いくらすばらしい考えを持った者であろうと、そういった例えをされると、最近では冷めてしまう。
 こういった部分は、私自身にとってはもはや論理ではないので、できれば某氏と言い方を変えて欲しいとは思っているがそれはそれで詮無い話ではある。

 『何なら、アフリカでだってメシを残してる奴はいるだろうし、アフリカの子供だって満腹になったらメシを残すだろ。/アフリカの子供がメシを残した時、お前はなんて言えるんだ?』
 これは、ここのところの正しい使い方かどうかよく分からない「相対的貧困みたいなもの」の話とリンクする部分はあろうかと思う。
 増田に文句を言う者からすれば、こう答えるのだろう。
 それは『満足に食べられない』ことが「見えにくい」のです、と。



 2つめ。
 『「作った人に申し訳ないだろ!」』。
 個人的には、そのことばを吐く者は作った人ではないはずなので、作った人はおまえじゃないだろ?と思う口である。
 というか、1つめの例えは、メシを食う行為に近しい当事者とは全くかけ離れているため、食事中にそういう話になってもどうってことはないが、このことばは、メシを食う行為に近しい当事者の一人に一方的になり代わった発言である。
 このため、外食などでいえば、作った人に聞こえないような店を離れた場所で言うなら、一般化した考え方の1つだと受け止められるが、作った人が周辺にいる可能性がある場所(外食なら店内)での発言は、私は、作った人を侮辱した発言であるとみなす。
 私の性向から私自身に投げかけられることは未だかつて一度もないが、複数人で食事している際に、そういう発言をする者がいれば、二度といっしょに食事にいかないようにしている。
 まぁ、残り少ない人生で楽しく食事したいじゃないか、と。

 『俺がメシを残したことによって、そのメシを作った料理人「本人」が悲しい気持ちになったのだとしたら、その料理人には向上心があるということだろう』。
 これは、個人的には、そういう場合もあるし、そうでない場合もありそう、としか言えない。
 確かに、私が料亭でバイトしていたころ、板長は料理の残し方や箸のつけ方、食べた後の状態まで見て、次回のその客により合った料理を出すための情報としていた。
 ただ、メシを残されたことが悲しいということだけが動機ではないとも言える。
 また、セントラルキッチンで作成された料理をただ出すだけの外食チェーンのバイトの場合なら、料理が残されたところで、残飯をゴミ箱に捨てるひと手間が増えるのが面倒なだけで、いちいち悲しんでいては仕事にならない。
 悲しむ努力をすべきは、作った人ではほとんどの場合ないと思われる社員店長なりスーパーバイザーなりであろうということになると思われる。

 『結局、俺が料理を残すことによって大きな不利益は生まれてないだろう。』。
 多分、一番の大きな不利益は、その発言を行った者の心理状態をもってその発言を行った者が不利益を被ったということであろう。
 先述のとおり、作った人を一方的に引き合いにだして自らの不利益を相殺しようとするのは、そのことばを投げかける対象でなくてもあまり気持ちのいいものではないため、個人的には否定的である。
 昔、知人に狂信的で他人に強要する「残さない派」の者がいたのだが、「もったいない」とか「作った人に失礼だと思わないのか」と言いつつ、「これを作ったのは誰だぁっ!!」的な発言をする者には心酔するという矛盾を抱えていて、一緒に食事をするのがとにかく嫌だった。
 相手をお互い容易に受容できないほど致命的であるなら、互いに遠ざかった方が生産的ではなかろうかと思うのだが、意図して近づいて叩き潰さなければならないことなのだろうか、という気はする。

 あと、直接関係があるかどうかは分からないが、企業IRの関係や14000関連によって、食べ残しを堆肥化するなどを行っている場合もある。
 できれば、食べ残しに食品以外のものを混ぜたりしないでくれると面倒が増えずに済む。
 これが商品、サービスに対する対価に含まれるのかどうかは、対価を払う側の意識によって変わるとは思われる。
 私は、個人的には、商品、サービスを提供する企業を応援する部分も含めて対価を支払っているとともに、企業を応援する部分を対価以外でも支払う(このケースでは、提供者にコストをかけさせないこと)という意識からその企業に資すると思われる行動を取っている。
 ちなみに、あまりに単純なことのため説明する意味もないかも知れないが、作業の主体であるバイトが時給だからコストとは無関係というわけではない。
 例えば、ESの観点からすれば、最終的に商品、サービスの質や採用コストなどに間接的に関わってくるためだ。



 3つめ。
 『「食べれる量を注文しろ!」』
 これは個人的に難しい判断を迫られるところかと。
 私自身の性向と周囲の友人たちの方向性が貧乏性なためか、自らが食べきれないものは頼まないし、それでも食べたい場合は、食べきれない場合に食べてもらえるかどうか注文するより先に相談したりしてしまう。
 それがいいのかどうかは別(残すより分配することがマナー違反である場合も当然ある。)にして、店舗が提供できる数量には限りがあり、それをもっとも欲する者へ適切に分配して消費者全体の最大利益とするというものであり、対価を払いさえすればいかような権利も優先されるというわけではない、という考え方に基づく。
 そういう意味では、私自身は、『ラーメンの大盛りが無料だったら、とりあえず大盛りを注文しておいて、満腹になれば残せばいい。』という考えには賛同しがたい。
 というのも、『ラーメンの大盛りが無料』である店舗側としての目的は、「大盛りでないラーメン」の量では満足できず『ラーメンの大盛り』を欲する客に訴求するための『無料』であり、『とりあえず大盛りを注文』する客に訴求するものではないということであろう。
 ただ、結果的に訴求するための手法(ここでは大盛りを無料にすること)が正しく機能を満たさない以上、店舗側の設定ミスと言わざるを得ない。
 そのために、食べ残しがあれば有料になるなどという条件の付いたシステムは、もったいないからというよりは、適切な者に訴求し、店舗側の意図しない者に訴求しない(どちらかと言えば間接的排除)ためのものであろうと思われる。
 すごく意図的な事例になってしまうが、回転寿司でレーンの上流側に座っているファミリーの子供が食べもしないのにランダムに皿を取る(当然、注文分の皿も無関係に取る)のを親がやめさせないことがあって、さすがに席を替えてもらったことがある。
 これも、子供が取った寿司は最終的にそのファミリーが後払いとはいえ負担することになるため問題ないかも知れないが、食べる目的ではない行為と食べる目的の行為とであれば、短期的に店舗側はどっちでも構わないとしても、客にとってはネガティブに判断する可能性もあると思われる。
 結局のところ、均衡論でいうところのどこをもって自らの行動規範とするかというだけなのかもしれない。
 さらに言えば、限定された時間で考えた場合、そもそも時間内に均衡するとも限らないわけで、『「ドーモアリヤァース!」と言うルーチンボイスが返ってくるだろう。』という状態が定常的解である可能性もなくはないし、そこから行動規範を導くのも理にかなった方法であろう。

 『帰り道のコンビニでアイスを購入し、それも半分食べて残した。』。
 これは、また別の要素があって、購入できる量のアイスの選択肢が自ら欲するものと乖離している場合、既製品である以上、いかんともしがたい。
 カネのある者は、増田のように残せるし、カネのない者は、容量の小さいものがあれば、若干の足らずがあっても我慢するとか、そもそも買わないで指をくわえるという選択肢を選ばざるを得ないだろう。
 個人的には、アイスを食いたいとする欲求が将来的に発生する可能性を見越して、半分食った残りは冷凍庫に保管したりして無理やり先の乖離の帳尻を合わせる行動に出ることが多い。
 要は、1回の欲求だけで留まれば、捨てても残して保管してもコストはさほど変わらないが、2回欲求が発生してしまえば、捨ててしまった方は2倍のコストが発生することになるというしみったれた発想である。
 ただし、このコストの計算を適用するには、アイス特有の問題がつきまとう。
 半分食べた状態で、一部(特に容器と隣接した箇所)が融けてしまうため、再冷凍に伴い食感などの味に影響してくる。
 こういった問題に関して、2倍のコストが容認できるかどうかが鍵となる。
 例えば、「爽」などは、その製法上の特性という観点からメーカー側が再冷凍させたくない意志が強いためか、再度ふたを閉めて密閉することが可能なパッケージ構造になっていない。
 悪い言い方をすれば、2倍のコストがかかってでも商品コンセプト上、そうやって食えということをメーカー自体が半強制的に推奨しているようなものである。
 また、自ら欲する量が購入できる選択肢にないことは、ユーザ側の視点から考えれば、供給者側がユーザのニーズを汲み上げられていない、と捉えることもできなくはない。
 しかしながら、資本主義社会のありがちな点として、自ら欲する量の商品を出すほどのニーズが市場に存在すると供給者側が認知しない限り、提供されないことになる。
 この供給者と一消費者との意識の差をもって、自らが主流でないと涙をのむのか、増田のように自らの欲する形に加工するのかという違いのように思う。



 『誰かこれ、食べます?』
 恥も外聞もないが、食わせてくれ。
 そんな贅沢品、食える機会あまりないからな。
 ただ、増田のそばに行くまでにラーメンの油がどんぶりの表面に白く固化し、アイスは融けて常温の液体へ成り下がっていると思われるが。
 世の中、そういうミスマッチだらけな気はするが、こればっかりはどうしようもない気はする。
 正直、ネットで食べ物が直接流せたらどれほどいいかと思うことがよくある。
 そんな気分。