情報と精神衛生にかかる機能

 記事内で結構「精神衛生上〜」とかよく使うのだが、よくよく考えてみると、一般的にどういう使われ方をしているのだろうとか思った。
 コトバンクによると『精神衛生 mental hygiene とは、広義には精神的健康 mental health を保ち増進すること、すなわち精神保健であるが、狭義には精神障害にならないように予防すること(第1次予防、発生予防)、なった場合も早期発見、早期治療、再発予防をすること(第2次予防、有病率低下)、そしてリハビリテーションを促進して精神的健康を回復すること(第3次予防、社会復帰)を指す。精神的健康とは精神障害がなく、個人が社会の中で良好な適応状態にあることだが、社会文化的価値基準や個人的事情の違いにより相対的な面がある。(世界大百科事典 第2版)』とあり、これに「上」という接尾語が付いているだけではある。
 ググってみれば予想したとおりではあるが、まず医学的な意味での障害や疾病の原因や問題点などを説明するための表現として使われることはほとんどなさそうである。
 あ、いきなり脱線するが、私の文章では、原則的に言語(ことばや単語など)はすべて「遣う」ではなく「使う」を意図して使用している。
 また「言葉遣い」という意味を表すときは、(言語やことばなどを)扱う、操る、行使するなどという置き換えをしている。
 個人的にそうする明確な理由はあるのだが、精神衛生上許せない方は、「遣う」に脳内変換をお願いしたい。
 で、もとに戻って。
 また、『個人が社会の中で良好な適応状態』を持続するための阻害要因は、「腹が立つ」とか「うざい」とか「きもい」とか「不快になる」とか「欲望に歯止めが効かなくなる」etc.の様々な感情表現で示されるが、結局のところ説明にあるとおり相対的で人それぞれだということだろう。
 どこに基準を置くかは難しいかも知れないが、基準を例えば9割と仮定して9割の者が精神衛生上問題ないと感じる事象であるとか9割の者が精神衛生上許容できないとする事象であるとかに対して、推奨されるべき事象であるとか倫理的もしくは社会的、法的などで規制されるべき事象とされるのであろうが、およそ、いずれかが9割に達しない事象の方が多いのではないかと感じる。
 まぁ、こういう話においては、完全無秩序な状況でないからそう感じるとする者もいるが、とりあえず、実情での問題として考えてみることにする。
 「人それぞれ」と言っておきながら、自分がたりを始めてしまうわけだが、個人的に、瞬間的に怒りを覚えたり、不快な気持ちになったりする事象に対しては心的外傷を伴うほどのよほどのものでなければ精神衛生上よくないとは表現しない方向であり、どちらかと言うと怒りや不快を覚えることに加えて、そのことに関して様々なことを思い巡らせてしまうことで、低スペックであるがゆえの限られたリソースを無駄に使ってしまうことにその外的要因のみならず、自身のその入力情報に関する処理プロセスも含めて心底腹が立つ場合に使うように思う。
 要は直接攻撃+内部崩壊(飽和)+ループバックが同時に自らに降りかかるのは結構つらいということを表現するために使っているといっていいと思う。

 で、やっと本題らしきところに入る。
 とりあえず、現実に人と人同士が直接的にやり取りする場合において精神衛生上よくない事象は当然多く、また勝手に逃げるわけにもいかない(えーと、私自身が精神衛生上よくない事象を生まない努力をするのは大前提ですよ。もちろん・・・(自戒を込めて))わけで、その原因も含め納得するなり諦めるなり受容するなりせざるを得ないわけだが、ネットの場合は、また、違った様相を示すように感じる。
 これも、情報を受け取る側の立場によって受け取るべき事象であるとか当人が受け取るつもりがある事象であるか、受け取ることが能力的、立場的などにおいて可能な事象かとかは様々で、さらには何の対処もせずに受け取ってしまうと自らが本来重要であるべき情報が埋もれてしまうばかりか、ガラクタな情報に押しつぶされて方向性さえ見失ってしまいかねない。
 まぁ、リアルでも、たとえば「なぜ、私は無関係なおまえに叱られているんだ?」とか思うような事象も存在するといえば存在するが。
 そんなこんなで、実情、私はそういった状況に対応するべくfirefoxGreasemonkeyで自らNGワードを指定して総合的に情報を扱ういわゆるポータルサイトなどの見出しやその見出しの概要を画面から消すスクリプトを放り込んでいる。
 スクリプトといえど、それこそC言語のテキストにある「Hello world」に毛が生えた1行で済むレベルのものにすぎない。
 ちなみに、今日はひさしぶりに、自身の主張のためだけにメディアを悪用する強引な手法にほとほと嫌気がさしたので、それをNGワードに追加してしまった。

 昔は、先の「人それぞれ」に対応する機能なりサービスなりがあっても不思議じゃないのに、なぜないのだろう?と考えていたものだが、最近では、その考え自体が危険思想で反社会的行為であるとされている嫌いがあるように思うようになった。
 古くからの事例として、TV番組の録画に関してCM飛ばし技術をTV局や制作会社が無料放送のビジネスモデルを不当に侵害するとして訴えたり、CM自動カットが派生物の作成に当たるのかどうかなどの問題点をWebサービスに置き換えた形として問題が顕在化することがあらかじめ想定されるようなものは正規の真っ当なビジネスモデルとして許容されるものではないということなのかもしれない。
 たとえば、アドブロックスクリプトが法的にどうなのか?という問題と根は同じことになるのだろう。
 また、単なるウェブページにおいても、先の一部の文言を非表示にすることが「著作物の改変」にあたり不法行為とするなら表示デバイスに搭載されていないフォントが指定されているために別のフォントで代替した場合や定額SIMの最適化という名の画像の再圧縮などに対してどこが線引きなのかは利用規約などに書かれているのかも知れないが、そもそもそんなのをいちいちWebサイトごとに詳細に確認していられないのが現状と言えなくもない。
 ちょくちょく読ませてもらっているはてなダイアリーのユーザの方もTwitterで読みたいTweetはあるのに読みたくないTweetがあることがストレスになる旨書かれていたりする。
 私自身、Twitterのユーザではないので事情がよくつかめないのだが、その記事を読む限りだとストレスの発生源であるユーザをブロックしても何らかの形で見えてしまうことがあるようだ。
 また、SNSは「ソーシャル」を冠しているだけあって、現実の規定された社会的集団にリンクしたものである場合、ブロックするわけにもいかないこともあるのかもしれない。
 ググってみると、Twitterの公式クライアントではない別のクライアントでは何らかの形で実現しているっぽくはあるのだが、結局のところどういう結果になるものなんだろうと思ったりもする。
 また、情報収集などに関してコンシェルジュ的な役割としてAIが用いられるようになったとして、より必要な情報が提案されるのではなく、既に提示されている場面において当人が提案して欲しくない内容を除いてくれる機能は多分、技術的な可不可に関係なく望めないのかもしれない。
 また、同様に業務上のTweetにおいて当人が感情的に不安定になっている状態で書き込もうとしていることを情報端末などから察知し問題となるようなTweetが行えないようにするとか、いわゆるバカッターと呼ばれる行動やさらには利用規約に明確に違反する犯罪行為を類型化してTweetできなくする技術にもAIが生かせそうだが、これも技術的な可不可に関係なく望めないのかもしれない。
 市場主義の論理から言って、規制があればあるほどユーザが増えないということから最大限の自由度を提供することは正しくはあると思うのだが、聞かせたい、見せたい権利と聞きたくない、見たくない権利のいう相反する事象に対して提供する機能や規制が一方にばかり偏りがちになるのは、世の中として致し方ないものなのだろうか?と思ったりもする。
 とはいえ、こういった考えを持つこと自体がおかしいという考え方も、必要な情報を集める行為を純化させ続ければ無意味という人からすればあるようで、一般化するにはなかなか難しいところなのだろうなぁと感じる。