今週のお題「私の癒やし」

 「癒し」というと、最近とみに豊漁らしいね。
 もうえーわ、どうもありがとうございましたー。


 で、癒しというと思いつくのは「ネコ」だったのかなぁ。
 ストレスに対する癒しという意味でのストレスなどとかいうしろものは、個人が置かれる環境とその個人によるその認知によってたとえ同じだとか似かよっていても扱いは変わってくるわけで、小さい頃に癒されると感じたのは、うちにいたネコの嫌なことは嫌とその場ではっきり自己主張すること、およびそのレベルによっては配慮することもなければ根にも持つこともなく適切に尾を引くこと、また食事や自らが志向する行動を制限されることに躊躇なく自己主張し、ときには自らの行動の一貫性を突き崩すことも厭わないところだったりした。
 翻って、単にその反対が自身のストレスだったりしたわけで、まぁ、その程度の浅い話ではある。
 とはいえ、歳を食ったせいかどうかは分からないが、生き物というのは癒される以上に相手が死んでいなくなることと自らが死んで相手がいなくなることを想像してしまうこととを含めたペットロスの方が自らの中で大きなウェイトを占めてしまっているので、今ではどうしても距離を置いてしまうのだが。
 あと、若かりし頃はと考えてみると、風呂の中で寝ることととかコタツの中で寝ることとかコートやダンボールをかぶって寝るのではなく毛布を抱いて寝ることとか、思い出すのは睡眠ばっかりなのだが、多分、それって体力回復であって癒しではない気はする。
 ただ、当時としては体力回復が癒し扱いだったのかもしれない。
 で、自身のなかでも癒しという対象、というよりは考え方とか扱いが変化しているわけだが、先述のとおりストレスを例にとっても個の認知によって変わるということは、環境の変化よりも個の受け入れる体制の方が劇的に変化すると癒しも癒しとして機能しなくなるような気もする。
 例えば、うたたねとかの入眠時のふんわりしたあぁもういいや感が結構好きだったりするのだが、ブラック典型の仕事が洒落にならないレベルでグダグダで体のきしみを実感し始めると、電車で立ったまま寝落ちしかかると強烈に吐き気がしたりとうたたね自体が癒しなならなかったりしたものである。
 え?
 それは、病的症状だって?
 まぁ、そうだったんかもしれんね(遠い目)。
 で、今の癒しは何だろな、と言われると、簡単には思いつかない。
 とはいえ、「癒」の中身は輸とか喩とか愉のように移動や移転がポジティブな意味で自由になるという意味からそれを含意するとすれば、ここで日記を書いていることが、日々の精神的活動(こう書くと高尚に見えるが、ただの空想)を移転でき、それがかなり労力なく行えているという意味で癒しに値するのではないかと思っていたりする。
 htmlタグをエディタで手入力し、FTPでアップロードするとか、腐ったCGIスクリプトを書いてデータすっ飛ばしたりしたのは懐かしいが、絶対にそんな時代に戻りたくはないし、って何の話だよ。
 なにしろ、ありがたいことです。
 というわけで、終わる。