ざっくりと

 とりあえず、検索避けっぽい意味でざっくりと書いてみる。
 そして、ネタとしては古い。(もう去年末あたり・・・か?)

 某スポーツ関連で競技中に盛られた件。
 いかなる理由があろうと盛った者にかけることばは全く持ち合わせていないが、被害者側にはのどにつかえるような思いで一杯であった。
 まぁ、当初盛ったのを知らなかったころは、ああ、なんてことをしちゃてるんだ、と思っていたわけで、ある意味現金な手のひら返しとも言えなくもないのだが。
 で、私自身が体育会系では全くないために、その正確さや妥当性などはその領域の者からすれば格段に低いだろうが、とりあえずその時に関連して考えてたこと。
 まず、盛る、盛らないとは無関係に検査で引っかかれば、どの競技でも世界的にいって「俺がやったんじゃない、盛られたんだ!」と弁明したとしても受け入れられることはないと言われている。
 国際大会の選手団とか国単位の競技団体全体の問題として扱われるような場合を除けば、結果を呈した者自身が説明責任を負う(証拠探しなども含め)ということになる。
 今回、盛ったことが明るみに出たのは、実のところ競技団体が細心の注意を払いながら個別に調査したり間に入ってみたりとビジネス論的なところではなく親身になってがんばったことがもたらした結果(確定、公表するまでの期間を要したことも含め)であったのだと思える。
 先述のとおり体育会系とは縁遠いので、そういう属性の者が感覚的に思い描くだけのことではあるのだが、盛ることに対してなぜ盛るのか、というのは、人という行為主体の1つが抱えるリスクをとある時間、角度という任意の地点で観測した際の外見的な性状を言い表しているに過ぎず、例えば、甲子園のサッカー問題なんてのもそのパラメータが異なるだけで根は同じなのではないかと思う。
 以前、企業不正などについて書いたときに触れはしたが、厳然とリスクは存在するのであろうが、あらゆる者が常にそのリスクを事故にまで引き上げるわけではなく、現に事故の加害者に限られるというのも事実である。
 とはいえ、全体的としてそのリスクを保有することに甘んじてよいというわけではないだろうし、単にその中のいずれか(主体として「誰か」だけとは限らないので)だけが保有すればいいわけでもないと思う。
 ぶっちゃければ、その分担として個の責任とすることは結構たやすい。
 やっちまったら切ればいいし、気に入らなければ潰せばいいという手法である。
 まぁ、それはそれとして、特に組織論のような領域から考えると、個の弁明が受け入れられないことに対して、管理する組織側が、ほぉー、受け入れなければそれでいいんだ、楽やなぁ、でいいわけではない。
 いや、よくないことにしてほしい、という意味ではあるのだが。
 海外における盛られ方に対する各団体の体制が盛り盛りする対策としてどのように機能しているかは具体的かつ詳細に知っているわけではない。
 ただ、考え方としては、盛り盛りし過ぎて人体を損傷するような刑事事件に発展した場合を除き、捜査権なども持ち得ない一私人が物的証拠等を探し出し、犯人にたどり着き、身の潔白を証明するのはあまりに障壁が高すぎることを考えれば、運営者やそれを管理する競技団体などが競技運営中に盛り盛りするリスク(それ以外の場合はまた別としてここでは考えない)を当該プロセスに見合った形での各関係者間の合意がそれなりに可能なレベルまで低減させる明示的な手段を講じているし、またそれに基づいて運営者やそれを管理する競技団体などは参加選手に対してコミット(いつものとおり宣言し、周知・教育し、実行し、検証し、結果責任を負うといった一連の行為を指す)するからこそ当該プロセスが適正であるとすることができるのではないか、という想像から、個にばかり押し付けているわけではないのではないかと思える。
 一応、リスクマネジメントの世界で、教科書どおりではない方がシステム的に効果的ではないが効率的だという一例として、よく起こるとされるが、ほとんど起こらないと考えて(日本語おかしいな、いい表現が見当たらない)、リスクを低減するといったヘッジ側よりも事後対応を人間系で厚くした方がよいという考え方(こういったのが一般によくない考え方だとされるのは、防災対策をせずに消防署員と消防自動車を増やせばいいのか?という課題と似ているためなのだが、あえて、ということで)もなくはない。
 現状として、ヒトもカネもなくモノはそれなりに老朽化していくという状況を鑑みるに、リスク低減という領域にリソースを突っ込むことは難しいと思うし、また、それを阻んできたのかもしれない、と個人的に思っていたりはする。(意図して主語がない。以降同様)
 先述の「やっちまったら切ればいいし、気に入らなければ潰せばいい」という考え方。
 これがヒエラルキー構造の上層で湛水され、越流もしくは浸透し下層まで影響を与えると、事件の解決は保身の意味も含め相手を切ることで達成され、リスクといえば自らの身を脅かす保身という領域で考えれば同じく相手を切ることで低減される。
 このような組織構造を持ってしまうと、組織内部の個の特性とは無関係にある意味恐怖政治的運営が全体的に行われるために、その意にそぐわない行動や考え方は原始的なヒエラルキー構造の特性を有した形で抑制される。
 結局、特定の個が自身に対して認知し想起するリスクとその対応が、組織全体とかシステム全体とかその一部に内在するリスクと一致する場合(たとえば、好調なワンマン企業なんてのが該当することが多い)は昨今のはやりのマネジメント手法とは相容れずとも有効に機能するけれども、それが乖離すればするほどどこかにしわ寄せがいく。
 そして、このしわ寄せというのは、あくまでリスクという観点(厳密には主体が設定するリスクとして考えた場合はそうはならない。昨今の一般的なリスクマネジメントにおける考え方に基づくリスク、ということになる)でそうだというだけで、事故にならなければ気づかない、もしくは先述のとおりたとえ気づいていても手を出せないがゆえに、ハンドルのない暴走車だともいえる。
 で、実のところ、こういった組織を変えるにはトップの意識が云々とかビジネス書に書かれていたりはするのだが、こういった場合に限らず、簡単には変わらないのは経験上の数少ないサンプルからだがそう思えるし、当然ながらリスクの設定から導かれる結果が相手を切ることであったならば、自らが逆の立場になることしかより有効な解決方法はないことが理解できても、またできるがゆえにそれに甘んじるとは思えない。(いわゆるしがみつきの精神を説明する手法の1つ)
 また、コンサル領域の話を聞くと最上層にたまった水(うみ)を除去しても、それまでに下層に浸潤した水分(毒)は抜けないし、その期間はひどい場合数十年かかることもあるらしい。
 と、いったようなことを20年ぐらい前から思って他に話したりしていたりはしたのだが、何となくではあるが、事件やその背景の説明がついてしまうのも悲しい気がする、という。
 で、多分、システムとして象徴的な意味かどうかはその時にもよるだろうが、転換点がどこかの未来にあって、またそこから何十年かかけて正常な状態に戻る(さすがにたとえ政治利用目的だったとしても振り切れること(要は全ての国際試合に出なくなるとか出してもらえなくなるとか。国内でさえ事案(知っているのはインシデントに該当する件だけだが)がなくはないのだが)はなかろうと思えるので)のかなぁ、とか予想したりするわけだが、どうせあっちに行ってるので言い逃げということで終わる。