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地(じ)

 記事の本旨とは全く関係ないけど、まずは興味があるところを引用。
 この記事なんだけど、地頭力とは

これは「勉強ができるか」ではなく、「情報を聞いて、インプット・整理し、自分の解が出せるか」です。これが速いのがハーバードの大学生です。
知らないことを矢継ぎ早に伝えても、瞬間的にインプットをして、「こういうことですか?これはどうですか?」と、すぐに何かしらのアウトプットが出てくるんですよ。
しかも、出てくるアウトプットが正しいんです。めちゃくちゃ頭いいなって思いますね。
この力は社会に出てからも非常に重要な力なので、面接でもいろいろな角度から話をして、情報がたくさん詰め込まれたときに、それを理解して、整理して、自分の言葉で話すことができるかを見ています。

らしい。
 過去にも「地頭」という表現がよく分からないので使うのを避けるというようなことを書いたんだけども、ここでは、定義がどうだとか正確かどうかというのはあまり関係がなくて、就活関係で影響力を持つ者が表現しているとするなら、少なくともその現場において、と条件をつけるとするべきならしたとしても、言語として成立しているものだと思うので。
 個人的に、避けるというか拒否反応を示すのは、「地」が「素地」とか「地声」とかいった本来の特質とか事物を指すもの(当然別の意味もあるけど)として捉えてしまう関係上、個の特質が本質的に先天的か後天的かとかややこしいことは無視したとしても、後天的に獲得したものではない何かを暗喩し、さらに当該字句が使用された後にもっぱらやり取りされる社会的な事象(多くの場合、該当者にとってはネガティブ)をも含めると、どうにもあがきようがないことなんじゃない?とか考えてしまうこともあったりで。
 ただ、それはそれとして、嫌だから触れないですますのが大丈夫なこととそうでないことがある(当然その事項や判断は人によって異なるわけだが)ので、何らかのオーソリティ(単純に権限とか権威とか訳されるけど、ここでは何らかの領域(とある領域の一部)を占有し、その影響下にある事物が存在し、その状態・状況やプロセスが第三者(個人的に表現として用いるのは大抵は自身という観察者)から見てそれなりに評価できること(内容のマルバツというよりかは量だとか度合いとかで想像も含む)を指すので、どう単純に日本語化していいのか分からんのだが)の発言を参考にしたく思っているところもあったんだけども。
 で、この定義からすると、先日も触れた「認知」→「判断」→「操作」という原始的なモデルに似たものではないのかな、という気がした。
 一応、こういう領域の場合、運転免許の世界でも、根本なので何ものも介入の余地なし、と切り捨てられているわけではなくて、様々な手立てが設けられているように、必ずしも『ハーバードの大学生』になれるわけではなかろうけども、それなりの努力などによる底上げが可能な気がする。
 とはいえ、『正しい』のがどういった意味で正しいのか、また『正し』くあらねばならんのか?というのもあるけども。
 例えば、あらかじめ『正しい』ことが存在することをたずねることが『正しい』のかどうか、とか。
 さらにいえば、『アウトプットが正しい』ことは、そもそも『正しい』何かが存在する上での相互の情報交換なのかどうかを察知する力が卓越する命題であればあるほど純粋な力を計測することが難しくなるのではないか、とか。
 ただ、その下の最後の説明では『理解して、整理して、自分の言葉で話すことができるか』となっているので、とりあえず『正しい』かどうかは瑣末な部分なんだろうとも思う。
 あと、『「勉強ができるか」ではな』いという部分があるんだけども、これも何というか。
 「勉強」とか「学習」とかってなんなの?という部分もあって、こういうのに触れられると定義してもらいたいなぁ、という。
 個人的にはあまり書いてこなかった気がするけども、「勉強」は字面どおり強いて努(≒勉)めることが軸であって、自らを強く律してその道を精励する、雰囲気的に修行っぽいもの、他律的に考えるとやらされている学業の何かみたいなものという捉え方をしてしまう。(あくまで自身の成り立ち(生い立ちですらない)からすると他律側のイメージが先行するけども)
 一方で「学習」は学ぶは古語的に「真似ぶ」こと、習うも漢字の成り立ちから繰り返し真似ることであり、イメージとしては手本が与えられそれを何度もなぞることで手本の再生産が可能な者を作り出すといった能力獲得モデルの1つという考えが先行する。
 とはいえ、世の中双方ともそんなところとはかけ離れた意味で扱われていることが多いため、普段からざっくりと読み飛ばす割に自身ではあまり扱いたくない単語ではある。
 ただ、少なくとも、あくまで想像だけども『ハーバードの大学生』は総じて『勉強』はできるんじゃないかなぁ、と考えると、『「勉強ができるか」ではな』いというより、「だけ」ではないのだろうなぁ、という気がする。
 場合分けからすれば、
   (1) 勉強× 当該力× (2) 勉強× 当該力○
   (3) 勉強○ 当該力× (4) 勉強○ 当該力○
であって、『ハーバードの大学生』は(4)であり、(3)の該当者は(2)もしくは(4)に近づくことでよりよく評価されるということではないのかと思う。
 個人的に(1)の者からして(2)がよりよいことなのか、未だに意地になってネガティブに感じるのは、、、、うーん、まあ個人的にそうなんよね、としか。
 古い人なんで・・・・
 で、『正しい』かどうかいう領域にもなるけども、

たとえば、「今日は月曜日で今17:30だよね。この部屋にあるものを1つだけ手にして、今から東京駅に行ってお金に換えてきてって言われたら何を持っていきますか?」と問うんです。
これでどんな発想をするか。マーケティング派なのか、営業派なのか、簡単な素地がわかります。
勢いよく「とりあえず携帯を売ってきます」と言ってきたら「営業系だな」とか思うわけです。
おそらく、携帯を持っていない人って東京駅にほぼいないですよね。でも、「なんとかして売り込める」と思っているわけですよ。「営業としてガンガン売ってくれそうかも」と期待値が少し上がりますね。

という回答は遵法的にどうなの?という点としてどうなんかなぁ、とか。
 グループワークのブレストとかやってる段階では問題ない多分「正しい」アイデアなんどけども、最近の偽装やら言い逃れとかを見ていると、現実世界で実行したことが「正しいわけではない」とか「誤りである」ような事案を『情報を聞いて、インプット・整理し、自分の解が出せるか』という手法を用いて少ない情報(知識とか技術とかも含む)とスピードで捻じ曲がって深入りしていることが多い気がするので。
 知らんけど、今の東京駅構内って商売していいんかもしれんけど。
 まじで知らんけど。
 んー、あと、ちなみにマーケティング派ってどんな発想するんだろ。


 さて、実のところ4つ提示されている評価項目のうち最後の社会性という項で『人として最低限知っておくべきことを知っているか、うそをつかないか、などそういうレベルです。』という押さえをしっかりきかしているあたりがこれまたすごい気はした。
 すべてきれいに収まるわけではなく、それでいていずれかがきくべきところできいているというのは、自身の性分上かなり困難なのでかなり憧れる。

 それにしても、面接いやや、、、、、
 個人的には、お互いしなくていい世界が訪れたらいいのに、と願ってやまないというオチはやばい気がするけど終わる。
 そして、自身の本旨である当該単語の意味探しの方はきっとまだ続く・・・