今週のお題「おやつ」

 おやつというと菓子類を想像する。
 が、残念ながら成人に至るまでの間、おやつという習慣が形成し得ない家庭環境だったため、定常的に存在するものではなかった。
 また、そういった意味で、菓子類を食事以外で食す行為を「おやつである」という認知として関連付けることができない(基本的にそれ自体がおかしいはずだが)ので、どちらかといえば『自分へのご褒美として食べるお菓子』を摂食したとしても「おやつとして食べた」という認知には至らないというさもしい人間である。(あくまで気持ち的に食事扱い。)
 結局、「おやつ」なんてのは、特殊なイベント、という考え方ということになり、想起できるのは「遠足のおやつ」とか、本来なら限定的に表現されるべきものが「おやつ」そのものという認知なんじゃないか、とか思ったりする。
 まぁ、先述のとおりさもしい生き物なので、遠足のおやつとして買った賞味期限の長いスナック菓子を残して後々こっそり食べるために持ち帰っているのを先生(担任ではなく遠足のサポートしてくれる別の先生)に見咎められ、ちゃんと食って帰れ!とか叱られたが、てめぇの息子みたいに私の体重の倍以上あるような餌の与えられ方してねえんだよクソが!と思っても黙って聞き流したのを思い出す。
 何というか、しみったれてたさね。
 そして露骨にがつがつしてたというか。
 大学でひとり暮らしを始めるまで結局小遣い一切なかったし、それでいて無駄にねじ曲がった欲望だけはあったので、よく万引きにまで至らなかったものだと自分でも奇跡な気がするぐらいなので。
 あのときヤツらとつるんでたら確実にそれどころではなかったとか思う変節点となるべき数多くのイベントを偶然にもどうにか切り抜けてしまっているので、ある意味奇跡かと。
 与えられるものが少ない社会的環境下で与えないこと、およびその嫌悪を認知させ受容させていくことは最終的に社会性を身に付けていくうえで必要なことかもしれないが、どんどん豊かになっていく社会的環境下で与えようとしないことで何かを認知させるだけでは正しい受容が形成されないように思ったりもするが、何というか終わったことなのでどうでもいい。
 昨今、豊か(自身がではなく時間軸方向において相対的にみたものがという意味)であることが常態化してそれを認知すること自体が難しい環境下で、自己基準で既に備わったものを削ぎ落としていくような、もはや基準点が別次元にある事案が注目されるような世の中で有益な考え方であるとは到底思えないからだ。
 って、何の話だったっけ?

 えーと、菓子の関係、ということで最初に思い出した私の幼少期の思い出は、今でいう児童虐待なのでさすがにやめる。(いつか書くかもしれないけど)
 「贈答用の洋菓子(クッキー類)詰め合わせ」「賞味期限切れ」「贈答品の使いまわし」でそれっぽく想像していただければ、と。
 というわけで、ろくなことを書かずいつもどおりぐだぐだなまま終わる。